【第101回】 無 欲

合気道を修行している人は大勢いるが、始めた動機や目的は千差万別であろう。また、道場に通っている人もいれば、自分で道場をもって教えているひともいる。会費を納めて稽古しているひともいれば、会費をとって生活をしているプロやセミプロもいる。

しかし、誰もが上手になりたいと思っているし、悟りを開きたいと思って修行をしているはずだ。ただプロとしてやれば、どうしても経営ということを考えなければいけないので、純粋に稽古だけをやることは難しいだろう。開祖はそのため、経営にはタッチされなかった。この大きな組織の経営を担ったのは二代目吉祥丸道主であった。お陰で開祖は合気道の修行に没頭することができ、このように素晴らしい合気道を世に残されたのである。

開祖は晩年、常々、財産も名誉も要らない。無欲に神様に従って生きていると言われていた。もし開祖がその気になれば億万長者になるのも可能だったのに、そんなことには無頓着で、最後まで無欲で修行を続けられておられた。開祖は、「一つの道を貫くためには、他のことには無欲になって進まなければなりません。無欲になった時こそ絶対の自由になるのであります。世の中はすべて無欲の者の所有になるのであります。」(「合気真髄」)と言われている。

日常生活、顕界ではいざ知らず、一つの道、合気道という道を貫くためには、欲を出来る限り捨てて無欲にならなければならないことになる。無欲とは、やってこれでなにかをしようとか、得(とく)してやろうなどと、修行を他の目的の手段とせず、修行すること自体を目的とすることであろう。

無欲で一生懸命やれば、開祖がなさったように素晴らしい仕事ができるだろうし、人に感銘を与えることもできるだろう。かっての甲子園の高校野球は、人を魅了し、大きな感動を与えてくれた。それは、当時の球児がプロ野球に入れるわけでもなく、野球選手になれる可能性は皆無であったにもかかわらず、損得など考えずに、高校時代の最後を甲子園で燃焼したからだと思う。今の高校野球が以前のように感銘をあたえないのは、甲子園がある意味では就職先への売り込みの場のように見えるので、プレーする姿に「無欲」を感じられないのであろう。

高齢者には無欲の稽古がやりやすいだろう。無欲の稽古をして、合気道の素晴らしさを少しでも多く発見し、若い世代に伝えていきたいものである。