【第5回】 永遠に生きるために

世の中には、絶対的なことはない。上と下、左と右、重さと軽さ、頭の優劣、豊かさと貧しさなど、すべては相対的なものである。ある時期までは"死"こそは唯一絶対であるといわれたが、今では"死"すら絶対ではなくなった。

最近では本人確認に遺伝子DNA検査が行われるが、これは親や祖先が自分の中に生きていることになるわけなので、親や祖先は生き続けているともいえる。自分が死んでも子供や孫がいれば、否応なしに生き続けることになる。

しかし、血をつなぐ子孫がいなければ死ぬことになるのかというと、そうではない。人が見たものや、聞いたこと、感じたことはすべて記憶しているという。ある人を催眠術で無意識の世界に行かせると、意識では思い出せないような事柄をどんどん思い出すらしい。過去の記憶や今目に入った些細なことまで覚えているのである。ということは、何か言い、見せ、やれば、それを見た人には記憶が残ることになる。人類の歴史は数千年にのぼり、これまでに多くの人が生まれ、生き、死んでいった。人は会ったこともない過去の人のことも知っているが、それはその人が自分に何か大切なもの、重要なものを残してくれたり、与えてくれたからである。

歴史に残るような大きなことをやらなくとも、自分に何か与えてくれた人のことは記憶にとどまるものだ。

私の合気道の中には、いまだに合気道の開祖、植芝盛平翁や、多くの師範や先輩が生き続けている。開祖は、道場で弱いものを痛めつけるような稽古をすると、よく叱っていた。女性を腰投げなどの危険な技で投げたりして、それが見つかるとお目玉を食らったので、女性との稽古はまるで壊れ物を扱うように大事にし、用心して稽古するようになった。逆に、若者や力のある人とやる時は、気力を充実させ力いっぱい稽古をするようにしている。力や気を抜いた稽古をすれば、"そんな触っただけで跳ぶような稽古をするな"とまた叱られそうな声が聞こえそうだからである。

故有川師範は道場の床の間にいつも敬意を払っておられ、決して正面には座らず、正面をはずして正座をした上で正面に向かって礼をしていた。技を示す時にも決して相手を正面に向かっては投げなかったし、床の間を通る時には頭を下げて通られたので、自分もそうしている。この先達に少しでも近づくべく、また、間違った方向に道を踏みはずして叱られないように、いつも自分が見られているように思いながら稽古をしている。先達はいつも自分の中にいるのである。

ビジネスの世界でも後世に名を残したり、何か大切なことを残す人はいるが、名を残さないような普通の人でも後輩に何かを残している。会社を辞めても自分の何かが後輩に受け継がれているから、そこで生き続けていくことになる。 武道の世界でも、先生や先輩からいろいろ教えてもらい、後輩にそれを伝えていく。自分に大きい影響を与えてくれた先生や先輩も多いので、その人たちの教えを守り、技や動き、哲学に近づくべく稽古する。だから、たとえその人たちが死んでも、自分の中には生き続けている。

年を重ねてくると、多くの人の死を知らされるようになる。おめでたい便りより不幸な便りの方が多くなる。喪中につきお年賀ご辞退の通知が年々多くなり寂しくなる。

そうする内に、死ということをだんだん強く意識するようになってくる。
人は人と接している時には、通常あまり寂しさを感じない。特に人のために何かを教えたり、見せたり、やったりしている時は、生き生きとしている。これは人が永遠に生きたいための本能なのかもしれない。自分の教えたやり方や考えを受け継いでくれる、真似してもらえるのはうれしいことである。たとえ小さなグループでも嬉しいものだから、大きい流派などつくった人はどんなにかうれしいことだろう。
だから、絶対的な死ということはないのである。
永遠に生きるために、周りの人や後世の人の心に残るような事を、生きている間にしておきたいものだと思う。

武道や趣味でなにか素晴らしい発見をしたり、新しいものを作り出し、理論化しそれを後輩につたえたり、相手の脳細胞の中に入れることができれば、それも死を超越し、永遠に生きるための一つの方法ではないだろうか。