【第93回】 厳しさが欠けたら武道ではない

スポーツの世界では、相手に負けないように極限までの稽古をするし、毎日が緊張の連続である。試合の前の晩などなかなか寝付けないものである。一方、合気道には試合がないので、試合を想定した稽古をする必要もないし、相手と争うという緊張も必要ない。

しかし、合気道も厳しさがなければ、武道としての意味がない。もちろん、ひとによっては、武道として稽古するのではなく、健康法とか体操代わりにやっているが、それはそれでいい。合気道は自分に合わせて稽古ができるので、誰でもでき、このように普及しているのだろう。だが合気道に武道を求めて来ているひとも多いはずだ。従って合気道にも、武道が追求するものがなければならない。

武道の魅力の一つに「厳しさ」がある。普段の生活では味わえないような、心地よい厳しさである。ただし、合気道の武道としての厳しさは、スポーツなどの厳しさとは違う。

まず合気道の厳しさは、他人との戦いに勝つのではなく、自分自身に勝っていかなければならないことである。これは挑戦のしがいもあるし、勝ったときのうれしさは格別である。しかし、自分の中の「かれ」に打ち勝つのは難しい。他人は誤魔化せても、「かれ」を誤魔化すことは出来ないからである。また「かれ」は現実の自分よりも常に先を進んでいるからである。「かれ」に追いつこうとして、そこにたどり着いても、またすぐ引き離されてしまうの繰り返しである。

道場の相対稽古でも、相手と戦うのではなく、自分の中の「かれ」との戦いをしなければならないのである。相手を倒したとか、投げ飛ばしたところで得るものは大したものではないが、自分の中の「かれ」を納得させた稽古をすれば、大きな上達をしたことになる。相手が押さえられたり、投げられたりするのは、「かれ」との戦いの結果であって、目的であってはならない。相手は自分を導いてはくれない、が、「かれ」は導いてくれる。しかしながらよほど注意して稽古しないと、相手だけに気が向いていき、真の厳しさに欠けた甘い稽古になってしまう。

武道の厳しさは「スキ」がないことでもある。相手と技を掛け合っていても、相手の正面で技をかけたり、逃げ腰で受けを取ってはいけない。受けはいつでも反撃できる状態をつくっておかなければならない。

また気持ちと相手との体の接点を結び、それを決して切らないことである。この結びが切れると、せっかく合気している相手を生かすことになるので、相手を崩すためにまたゼロからやり直さなければならなくなるし、立ち直った相手が攻撃するスキをつくってしまうことになる。この結びを切らないで一つの形(かた)を収めるためには、気持ちと体の集中力(緊張)が必要である。気持ちも体もよほど深いところまで入って行かないと集中力は湧いて来ない。「スキ」をつくらないということが分かれば、仕事でも、日常生活においても「スキ」のないようにできるようになるはずである。

合気道を稽古するひとは、多かれ少なかれ強くなりたいと思っているはずだ。「わざ」を習得して、それを使いこなしたいと思っているはずだ。映画や漫画に登場する武道の達人になれればいいと、こころのどこかで夢見ている。だから基本の形や技も満足にできないものが、演武会などで派手な技を使ったり、武器取り技をやったりするのではないだろうか。

合気道は今や相手をやっつけるための稽古事ではないが、合気柔術などと呼称されていたように、かつては相手を制するための技術を学ぶものだった。つまり合気道の形と「わざ」には柔術時代からの、人を倒したり押さえたりできる術(テクニック)が遺伝子の中に残っている。多くの稽古人はこの遺伝子に心を惹かれているはずである。

しかし合気道は相手をやっつけるために稽古をするのではないので、柔術のような稽古はできないし、やってはいけない。このやりたい、または出来るけれどやってはいけないというジレンマのところに、合気道の武道としての厳しさがあるといえる。

有川師範などは、常にいつでも相手を決めることができるが、稽古だからやらないといわれて、ゆったりと「わざ」をしめされていたが、受けを取っているときなどには、いつ決められるかという緊張感があった。つまり合気道の形と「わざ」の稽古において、相手と争うのではなく、気と体を相手と合わせて動きながら、しかしいつでも相手を押さえたり、投げるなり、決めることができるような気持ちと体勢をもって稽古をすることが武道的稽古である。過去と結びつくということが大事である。やれば出来る、が、やらない。この中に、真の武道の厳しさがあるようだ。また、これが近代的な武道ではないだろうか。