【第646回】  形稽古の意義

合気道は通常、相対での形稽古により精進していく。形(かた)とは、片手取り四方投げとか正面打ち一教である。この基本の形を繰り返し稽古するのである。
合気道を習い始めの頃は、基本の形を何とか覚えようとし、指導者や先輩の動きを目を凝らして見、それを再現しながら覚えていく。最初は、指導者が一寸示した形を、こちらはどのように動けばいいのか分からずおたおたしているのに、先輩たちはいともたやすくやってしまうのに、一寸見ただけで出来てしまう先輩たちに驚愕し、そして尊敬をしていたものだ。後になって分かってくるわけだが、先輩たちは既に何度もその形を繰り返して稽古をしていたわけだから、指導者が一寸示した形を容易にできたわけで不思議でも何でもない事がわかったわけである。

指導者が示す形を、即、出来るようになると嬉しくなるし、稽古も楽しくなる。そうなると、力一杯相手を投げたり、受けを取るようになる。そしてその内に、相手を投げたり、倒すことに稽古法が変わっていく。相手を倒せば上手くいったとうれしくなり、相手に頑張られて、相手が倒れなければ、腹立たしくなったり、相手のせいにしたりする。
そしてこの時期が長く続くのである。

合気道を始めて半世紀以上になるが、入門当時と同じように、形稽古を繰り返しているし、これから最後まで形稽古は続くはずである。形稽古ができなくなったら、合気道の修業は終わりであろう。
形稽古は肝要であり、合気道修業の要であると考える。

そこで、何故、形稽古が大事かを再考してみたいと思う。
まず、形稽古とは何かを考えてみなければならない。
形稽古とは一教や四方投げの形を繰り返し稽古することであるが、一教や四方投げを、単に繰り返して稽古することだけではない。形稽古とは、一教や四方投げの形に、技を組み込んでいくことだと考える。形の中に、陰陽や十字などの宇宙の営みを取り込んでいくのである。それが技である。技は宇宙の営み・要因・法則、つまり宇宙であるから、無限にある。これを形に詰め込んでいくのである。手先から足先までの体の動き、技を掛ける際の、陰陽や十字に宇宙の法則に則った技を組み入れていくのである。宇宙が無限であるから、一つの形に100%技を詰め込むのは不可能であるが、少しでも100%に近づくことが形稽古だと考える。

形稽古に慣れてくると、相手を倒すことに専念してしまい、肝心な形稽古の意義を無視してしまうようである。技を掛けて、相手が倒れないのは、形稽古でのプロセスに問題がある。プロセスがしっかりしていれば、その結果として相手は倒れてくれるものである。相手が倒れてくれるために、相手を倒すことを目標とせず、プロセス、つまり、宇宙の法則に則った技と体をつかうことである。

そもそも形稽古の形では相手は中々倒れてくれないものである。技のない形では相手は倒れず、必ず反抗してくるはずである。形稽古中の争いの主なもとは、ここにあるといっていいだろう。

結論をいうと、形稽古での形をもっと大事にしなければならないという事である。形は真善美を兼ね備えるはずである。美しくない形は、真と善がないので、相手を説得できない。その結果、相手は倒れてくれない事になる。
どうも「合気道は形はない」とも云われていることもあるのか、形を粗末にする傾向があるように見える。

大先生が「合気道は形はない」といわれているのは、別の次元でのことである。例えば、大先生は、「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである」と言われている。つまり、最終的な目標は、魂の学びであるといわれているが、そこまでには、いくつかの次元でのやるべき稽古があるともいわれているのである。

まず、「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である」である。
気形の稽古とは、これまでの魄での形稽古を気形で錬磨すること、そして、その形から離れ気によって、己の体と相手の体を動かすのだという事だと思う。
これを大先生は、「形より離れたる自在の気なる魂、魂によって魄を動かす」 (合気神髄p131)と言われているのである。

形稽古で形をしっかり稽古しておかないと、気により、魂によって相手(魄)を動かしたり、倒す「気の学び」に行けないということである。