【第620回】  教える事、教えるモノ

合気道は50年以上修業している。今は道場に通うのは週3回だが、修業は毎日やっている。
合気道を少しではあるが、人に教えてきている。今は自分の修業で手一杯で、他人を教える余裕はないが、或る事情から年に一度、数日だけフランスに教えに行っている。

1966年にドイツに留学するにあたって、合気道を普及するお手伝いをすることになった。当時、合気道は日本でもあまり知られていない存在だったので、外国ではほとんどの人が知らなかった。だから、一教や四方投げなどの形を見せればよかったし、その形(技)で倒せば生徒は満足していた。
しかし、その内に、生徒たちは基本の形を覚え、力がついてくると、大柄で、力のある彼らを倒すのは容易ではなくなり、時として頑張られて倒せない事も起こってくるようになった。
そこで生徒に頑張る気を起こさせないようにするために、力を目いっぱいつかうと同時に、勢い(速度と拍子)、そして気魄を込め、必殺必勝の気持ちで技をつかった。
しかし、所詮、これは魄の稽古であったので、生徒たちも力が着いてくるので、ますます倒すのに苦労するようになるわけである。これは合気道を教える先生方が体験することだと思う。そして多くの合気道の先生方はここで体を痛めるようである。

やっと最近になってわかってくるわけであるが、合気道で教える事、教えるモノを、50,60年以前とは変えなければならないと考えるのである。
以前は、私のように強くなりたければ、私のやるようにやりなさい、という教え方が基本であったと思う。先生の技づかい、体づかいを真似して先生に近づくようにという教え方である。
確かに、当時の先生方は強かったし、武道家の羨望を集めるような鏡であった。特に、当時は道場破りがあるような緊張した時代でもあり、まずは強いことが基本であったと思う。

さて、私は数年前から教え方を変えた。教えることは、それまでのように、私のようにやれば上手くなるし、強くなるよという教え方ではなく、上達するための要件を教えるようにしたのである。合気道は科学であるわけだから、誰もが納得し、誰がやってもできるようになるための要件を稽古するのである。
上手くなるための要件は2つある。
一つは、呼吸力養成
二つ目は、技の法則性を見つけ、身につける事である。

合気道は武道であるから、力がある程度なければ技はつかえない。合気道の力とは呼吸力であるから、この引力のある力を、技を通してどのようにつけていくのかを稽古するのである。それ故、片手取り呼吸法、諸手取呼吸法、坐技呼吸法を重視し、必ず稽古することにしている。

二つ目は、技の法則を教えるのである。左右の足を規則正しく陰陽でつかう事。左右の手も規則正しく陰陽でつかう事。同じ側の手と足を規則正しく陰陽でつかう事。手も腰も十字につかう事。足も十字(撞木)に使う事等々。
息づかいの法則、イクムスビも教える。

また、何故、技を法則に則ってつかわなければならないのかも教えなければならない。これはこれまで何度も書いてきたが、あらためて書くと、合気道の技は宇宙の法則に則っている、と開祖は言われているからである。また、実際、技を宇宙の法則に従ってつかえば上手くいくし、そうでなければ相手に頑張られてしまったり、場合によっては体を痛めることになるのである。合気道の稽古をして体を壊しているのは、この法則違反からくるとみていいだろう。

更に、合気道の最終目標到達のためには、宇宙に則った技をつかっていかなければならないことを教えなければならない。何故ならば、合気道の目標は宇宙との一体化であるといわれているからである。宇宙の法則に則った、宇宙の営みを形にした技を身につけることによって、宇宙を身につけ、そして宇宙と一体化していくからなのである。

かっての上手は、相手を制する技と強い力をもっていることであったが、これからの上手は、相手を引っ付ける呼吸力(精神的と肉体的)が強力で、そして宇宙の法則を身につけ、それを技でつかえる人ということになるだろう。
つまり、上手い下手は、呼吸力の強さとどれだけ宇宙の法則を身につけているかによることになる。

大先生は当時から、合気道は日々、年々再々変わらなければならないといわれていたが、まさしくこのような事ではないかと考える次第である。