【第600回】  効かなくともいい、出来なくともいい

合気道は形稽古を通して精進していく。入門から引退までそれは続く。基本の技を相対で技を掛け合い、受けを取り合って技を磨いていくのである。
初心者の頃は、相手に技が掛からないのは当然だと思うのだが、稽古を続けていくうちに、技は受けの相手には掛かるものと思うようになってくるものである。だから、二教裏などで相手が崩れないと、何とか決めようとがむしゃらに力んでくることになる。
例えばこの二教裏であるが、力の差があれば、どんなに力んでも効かないものは効かないのである。

この二教裏で何時も思うことは、これを掛けてくる相手は、何とか決めてやろうと力いっぱいやってくるのだが、どんなに力んでも無駄なのだから、相手を倒すことではなく、自分の鍛練のために技を掛ければいいといつも思う。例えば、しっかりと両手でこちらの手首を絞り、両手首と己の腰腹を結び、腰腹で掛けるのである。更に、左右の足の陰陽、イクムスビの息づかい等もつかうのである。

相手を決めるために力んでいれば、自分のための稽古にならない。稽古は明日に繋がっていくものでなければならない。相手を倒したとか決めたとかで一喜一憂しての稽古はあまり意味がない。二教が決まったとか、相手が倒れたとかが上手いわけではない。大体の場合は、相手が弱かっただけの話である。

二教裏だけでなく、一教でも入身投げでも、今、その時決まらなくともいい。いずれ決まるようにすればいい。そのためには、合気の道にのった稽古をしなければならない。法則に則った稽古をすることである。陰陽、十字などの法則である。
しかし、陰陽、十字にしても、手、足、腰、それに息などのコンビネーションであるから、それを体、そして技に遣うのは容易なことではない。その内の一つでも法則違反をすれば、体は十分働くことはできないし、技にもならない。正面打ち一教の難しさはそこにあるわけである。

だが、この失策が法則に則ろうとする道の途上にあるならば問題はない。この失敗を基に問題解決すれば先に進むことが出来る。だから、効かないことがあろうが、出来ない事があろうが、それは上達途上のことであるから、構わないと云うわけである。今できなくとも、後日、きっとできるようになるはずである。