【第60回】 何が問題なのか分からない

合気道の稽古に来ている人たちは、みんな形(かた)を覚え、技が上手くなりたいと道場に通っているはずだ。中には、健康法でやっている人もいるが、そういう人でも上手くなりたいと思うことだろう。

試合がない合気道で上手くなるとは、どういうことなのか。試合があれば、試合に勝った方が上手ということになるが、合気道では取りと受けを交互にやるので、上手な方も投げられたり、押さえられたりと受けをとるため、第三者が見たのでは分かりにくいだろう。

上手というのは、形を崩さずに収め、多くの技を熟知し、理に適った技をつかい、呼吸力があり、理に適った身体使いをし、動きにスピードやリズムがあり、技には力強さと引力を兼ね備えているのをいう。しかし、実際は、手をとっただけ上手か下手かでほぼ分かってしまうものだ。

上手になる、上達するためにはただ稽古を続ければいいということにはならない。白帯の初心者の場合は、黙って先生のいうことやることを繰り返し稽古すればいい。余り考えない方がかえっていいだろう。先ずは、合気道の身体をつくらなければならないからである。体をつくるには理屈より体を痛めることの方がいい。

しかし、有段者で高段者になってきたら、上手くなるためにはどうすればいいのかを考え、それを意識した稽古をしなければならない。稽古をただやっていれば上手くなるという保証はないのである。稽古はやらなければ上手くならないが、やったから上手くなるとはかぎらない。稽古をやることは必要条件であるが、十分条件ではない。つまり、上手くなるためには上手くなるように稽古をしなければならないことになる。

上手くなるためには、いろいろとやらなければならない。力をつけたり、呼吸力を養成したり、新しい技を覚えたり、体の仕組みを勉強したり、体の使い方を研究したりしなければならないし、これまで溜め込んでしまった自分の悪い癖を取り除いていかなければならない。やるべきことやその優先順位は人によって違うので、各人が研究努力しなければならないわけである。上達するために何が問題で、そのため自分で何をすべきか分かれば、あとはそれをやればよい。そこからが本当の稽古である。

上手くならない最大の問題は、何が上手くなることを阻害する問題なのかが分からないことであり、考えようともしないことである。上手くなろうと思ったら、何が問題なのかを見つけ、その問題に挑戦することであろう。学校の問題とは違って、問題は自分でつくり、自分自身で解決しなければならない。稽古の面白さの一つは、自分自身で問題を自分に課し、自分自身でその問題を解決することであり、その問題を解決したときの喜びであろう。その喜びがあるので稽古が続くのかもしれない。