【第592回】  好きこそ物の上手なれ

合気道の修業は終わりのない、一生ものである。しかも、最後まで稽古ができたとしても、恐らく完ぺきではなく、まだまだやることがあると思うはずである。いずれその最後のときは来るはずだから、今のうちに出来るだけのことをしておかなければならない。後は後進が引き継いでくれるだろう。

稽古をはじめて50年以上になるが、これまでいろいろな事があったのに、よく続いていると思う。当時の先輩や同輩のほとんどは、すでに亡くなったり、稽古を止めてしまい、見なくなってしまった。残念だし寂しいものだ。

自分が何故、この合気道を続ける事ができたのかを考えると、それを一言で言えば、合気道が好きだということだろう。そして何故好きかというと、合気道には自分の探しているモノがあり、それは合気道にしか無いようだということである。例えば、一つは、宇宙はどのように誕生し、何をしようとしているのか、また、自分はどこからきてどこへいくのか、目標は何か等々である。

更に、合気道には他には見られない教えがあり、それを合気道の稽古を通して学べるのである。例えば、世の中に争いが絶えないのは、魄の物質科学が魂の精神科学を押さえつけているからであり、平和な世界をつくるためには、これまでの物質文明を土台にし、その上に精神科学がくるように置き換えなければならない。魂が上になり、魂が魄を導き、使うようにしなければならない。見えるモノや力を重視する社会から、見えない心を主体とする社会にならなければならない等ということである。

また、自分の体でも人間の体でも、合気道を稽古していると、その働きや機能、各部位の関係がよく分かってくる。例えば、十字の働きである。体の関節同士は十字(直角)に働くようにできている。体も十字につかわなければ技は上手く効かない。これは稽古をしていれば誰でもわかるはずである。

それに合気道の稽古によって、人間は小宇宙であることもわかってくる。
心と息でつながるのである。人の心には心と、その心と別な心の二つがある。心で思ったことは、もう一つの心がそれは駄目だとか、いいとかいう。その心は真の心であり、これを合気道では魂、つまり宇宙の心である。

また、合気道では、天の気と天地の息に合わせて技をつかうから、宇宙との稽古をしていることになる。

合気道を深く知れば知るほど、合気道を好きになるはずである。表面的に知っただけでは、合気道と他の武道や習い事と大差を感じないので、剣道や杖道や居合道に通って見たりと鞍替えをするのである。

合気道が好きになれば、多少の事、例えば、仕事が忙しいとか出張が多いとか、体調がすぐれないなどで辞めてしまうことはないはずである。

また、好きになればなるほど、技は上達するだろう。昔から、好きこそものの上手なれと言われる。逆に言えば、上手くなりたい、上達したいと思うなら、合気道をどんどん好きになることである。

合気道には、合気道にしかない素晴らしい宇宙観、価値観、人体や息づかいの教えなどあるから、それに気づけば誰でも必ず好きになり、恋女房のように離れられなくなるはずである。ぞして上達も間違いないはずである。