【第586回】  苦労を買う

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という諺がある。これは、若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないということである。

年を取ってくると、自分は若いときに苦労を買ってまでやったのか、その苦労が報われたのか等が分かってくる。買ってまでする苦労は、別に苦労しなくともいい苦労であり、自由な苦労である。どうしてもやらざるを得ない苦労とは違う。人は誰でもやらざるを得ない苦労、避けて通れない苦労を十分持っているわけだから、わざわざ買ってまで苦労などしたくないのが一般的な本音であろう。

人は少しでも楽をしたいと思っている。だから便利なものが発明され、普及する。その内に、坐っているだけで、食事が提供され、歯磨き洗顔がされ、自分の好きなところへ連れて行ってくれ、生きたいところ、見たいものが見れるようになり、また、体調も管理され、体調が悪くなれば薬が自動的に提供される等になるかもしれないし、少なくとも人類はその楽方向に向かっていると言えるだろう。

苦労はこの楽の対照であり、また、楽に反抗する意味に捉えれば、苦労は若い時だけに買うものではなく、いつでも買うべきだと考える。
我々は合気道をやっているわけだが、考えてみればこれは「苦労」である。夏の暑いのに汗を滝のようにかき、息を荒げながら技をかけ、床に転がっているのである。合気道をやっていない人の目からすれば、ご苦労なことだと「苦労」に見えることだろう。

苦労は先述したように、「自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ち まわれば、将来自分のためにはならない」ということである。
合気道も上達したいなら、楽しないで苦労することである。

合気道に於いての買ってまでする苦労には幾種類かあるだろう。
まず、合気道に入門したことがそもそもの苦労である。別に合気道をやらなくとも生きていけるのに、わざわざ時間や労力を割いてまでやるわけである。
次の苦労は、自分を鍛える苦労である。人は楽な道を選びたがるし、ちょっと気を許すと、その楽方向に向かってしまうものであるから、己を鍛えるのは中々難しいものである。合気道には試合や勝負がないので、ある意味では試合のあるスポーツの方が鍛えやすいかも知れない。
己を鍛える、苦労するために、まずは自分の肉体と精神の限界まで稽古をすることであろう。稽古をはじめて10年、20年、また年にして50才、60才ぐらいは足腰が立たなくなり、息が上がるような肉体と精神の限界の稽古で苦労することである。

稽古をはじめて40年、50年、そして年も60才、70才ぐらいになると、足腰が立たなくなり、息がハアハアゼイゼイするような稽古は出来なくなるが、更なる苦労をしなければならない。

周りの稽古人のほとんどは後輩であるので、以前のようにバタバタと稽古をすることはできなくなるし、しなくなるものである。理由は、体力が衰えること以外に、投げたり押さえることにあまり興味を持たなくなり、少しでも理に合った稽古を求めるようになったことと、稽古の相手が遠慮がちになるからである。

初心者や後進を、ただ投げたり押さえるのは楽であり、苦労ではないから、新たな苦労をつくらなければならない。
この次元での苦労を、一つの例として次のようにつくっている。
相手にしっかりと打たせ、がっちりと掴ませ、力ませるのである。人は一寸した事、言葉や動作で「おのれ小癪な」となるものなので、それを利用して頑張らせるのである。相手が頑張ると、こちらの体は思うように動かなくなるし、技もつかいにくくなるものである。理に合った体や息、そして技をつかわなければならないことになるわけである。当然、失敗もあるし、出来ないこともある。解決法が見つからずに悶々することもある。

しかし、この苦労から解決策や技が見つかり、技が変わってくるのである。
高段者になると、受け者は素直に受けを取ってくれるので楽になっていくだろうが、苦労に変えて稽古をしていかないと、行きづまるはずである。

仏教でも、悟るためには、一度悩まなければ悟れないと教えている。きれいな蓮の花も泥の中から出てくる。悟りは悩みを通って、本当の楽は苦労をして得られるようである。