【第580回】  8の字につかう

合気道では、主に相対での形稽古で技を掛け合って技を練っていき、技を磨いていくわけだが、技は中々上手く掛からないものである。その原因には、力不足、法則違反などと色々あるが、特にもう一つ挙げてみたい。
それは体の動き、息、そして気持ちを短く切ってつかっていることである。
合気道の基本技(形)は、最初に相手に触れたところから最後の投げや抑えまで、体の動きも、息も、気持ちも切れずにつかわなければならないはずである。ぼつぼつとこま切れのように切れてしまえば、そこに必ずスキができてしまい、相手に反抗の気持ちを起こさせたり、反撃されてしまい、武道としては危険極まりなく、避けなければならないし、また、端から見ていてもいいものではない。

体の動きも、息も、気持ちも切れてしまう原因は、まず、気持ちの持ち方にある。相手を投げよう、決めようと思って技を掛けることである。相手に気持ちがいってしまい、相手との相対的な争いの稽古になってしまうのである。
この相対的な気持ちを絶対的なものに変えなければならない。相手ではなく自分との戦いにするのである。自分を主体とした、相手は従の稽古である。

次に息のつかい方である。上記のように相手をどうこうしようと思って技を掛ければ、息を吐いて技を掛けるので、吐いたところで息が途切れてしまい、また体の動きと合わなくなるのである。
息を吐くのは相手と接してくっつけてしまう最初と最後の極めや投げのときで、相手を導き、技を掛けるときは息を入れなければならない。
この息を入れる(息を吸う)ことによって、息を長くしたり、短く一瞬で収めたり、また、この息づかいで体を早くも遅くも、技を大きくも小さくも自由につかうことができるのである。

体の動き、息、そして気持ちを短く切ってつかっている中で、外からも目で見えるのは体の動きである。技を掛ける己の体の動きがぼつぼつ切れれば、受けの相手の体の動きも同様に切れているはずである。
ぼつぼつ切れるとは一つの形(例えば、一教、四方投げ等)でお休みがあるということである。何故、お休みがあるかというと、上記の気持ちと息づかいによるわけだが、体のつかい方にもそれはある。一口に言えば、体を直線的につかっているということになる。

体を直線的につかえば必ずどこかで途切れてしまい、お休みができる。
それでは体の動きが途切れず、お休みにならないためには体をどのようにつかえばいいのかということになる。
それは合気道で云うところの円の動きである。円ならば初めから最後まで切れずにつながっている。
しかし、合気道の技での体は、只単純に円く動いているのではない。円でも8の字の円である。入身投げでも二教裏でも8の字の円の動きで体をつかわなければ技は効かないものである。受けの相手の力を抜き一体化して、相手を導き、技を掛けるためには、この8の字の円の動きが必須であると考える。

それでは8の字の円に体をつかうのにはどうすればいいのかということになる。まず、基本として、体(手、足、腰等)を陰陽、十字につかうことである。特に、腰を陰陽・十字につかわないと8の字の円では動けないものである。
また、イクムスビと阿吽の呼吸を身に着けなくてはならない。
まずはこれらを稽古で身に着けておかなければならない。

次に8の字の円に体を動かすためには、息と気持ち(心、精神)に働いてもらわなければならない。というよりも、息と気持ちで体を8の字の円で動かすのである。
しかし8の字というのは、単に体、特に腰をフラダンスのように回すことではない。気持ちと息と体でつくる8の字なのである。気持ちに従って息が体を動かすが、気持ちと息に体が若干ずれて円く動くことによって8の字になるのである。足に重心がのり、腰が十字になったときには、気持ちと息は他方の足に移っているのである。この感覚が掴みやすいのは、入身投げであろう。裏でも表でも同じように8の字の感覚がつかめるはずである。はじめから収めまで体の動きが切れることなく、お休みなくできるだろう。強くも弱くも、早くも遅くも自由自在にできるだろう。また、腰が十字に返って8の字になったときに、相手が円く回り、重力が無くなってしまう感覚も得られるはずである。
更に、この気持ちと息によって体が導かれる8の字から、合気道が求めている、魂(気持ち)が魄(体)の上になり表に出て、魄を導くということが分かるような気がする。