【第579回】  心の修業

合気道はいまや世界130数か国に普及しているといわれるように、誰でも容易にできる武道である。それほど多くない基本の形を覚え、受け身を取っていけば、筋力も体力もつくし、体は柔軟、強健になっていき、内臓も丈夫になる。
後は稽古を通して力をつけていくと、それに従って相手が倒れてくれるようになるので稽古が楽しくなり、更に力をつけようと頑張るようになる。

稽古をはじめて10年、20年は、誰でもこのように稽古を楽しむことができるわけである。
しかし、自分が力をつけてくると、受けの相手は頑張って倒れないようになってくるものである。何故相手が頑張るようになるかというと、強いと思う相手に対し防御の気持ち・本能が無意識のうちに働くことと、無理な力と動きには反抗してくるからである。力が弱い時期は、相手はその力と動きに合わせてくれていたが、強い力での無理な動きには、本能的に反抗するようになるのである。これは私だけではなく、誰もが体験しているはずである。

これまで容易に、楽しく掛けていた技がある時点から効かなくなるわけである。そこで多くの稽古人は力で何とかしようと、木刀や鍛錬棒を振ったり、腕立てや腹筋運動をしたりするわけである。
しかし、このような力をつける稽古をしても、また壁にぶち当たることになり、技が効いて、相手が倒れることはないまずなくなる所か、大体は体を壊すことになるようだ。

それではどうすればいいのかということになる。
勿論、力はつけていかなければならない。修業の最後まで力をつけていくことは必須である。しかし、この力は腕力や膂力という力ではなく、合気道で云う「呼吸力」という力である。引力をもつ、陰陽に働く力である。
従って、腕力や膂力に陥らないように「呼吸力」が付くように稽古をしなければならない。坐技呼吸法でも片手取り・諸手取り呼吸法でも、よほど注意をしないと呼吸力養成にはならない。相手に負けまい、相手の力を何とかしたいと思えば、腕力養成になる。しっかりとした目標を持ち、それを達成すべく雑念に惑わされないという心の問題である。
つまり、坐技呼吸法でも片手取り・諸手取り呼吸法でも、体の修業というより心の修業といっていいだろう。

次に、相手が倒れるのは力によるものではないことを悟ることである。初心者は形(合気道の基本の形)で相手が倒れると思ってやるので、どうしても力(腕力)をつかうことになる。
相手が倒れるのは、技である。技とは宇宙の営みを形にしたものであり、法則性がある。その法則に則った技や動きは自然であり、無駄なく、美しく、そして強いということになり、それで相手も納得して倒れてくれるわけである。つまり、相手が倒れるという事は、相手の心がその体に倒れなさいと命じて、その結果として倒れたということである。
相手の心に訴え、納得してもらうことが大事なわけである。そのためには、己の技が宇宙の法則に則っているよう、外れないように注意しながら技をつかっていかなければならない。極端に言えば、自分の心で相手の心に訴え、相手に倒れてもらうわけである。そのためには心を鍛えなければならない。
心の修業ということになる。

人は日常生活では、会社、国、社会の中で生きている。他に負けないよう、競争に負けないよう、少しでも多くのモノが得られるよう、損をしないようなどと生きている。この日常の競争社会から道場に入って稽古をするわけだが、どうしてもその日常の競争感覚・意識が稽古でも出てしまうものである。よほど合気道の世界に深く入り、世俗の事を忘れて稽古をしないと、俗世の物質文明の力をつかうことになる。
心の問題と考える。

はじめの内はどうしても相手を意識し、相手を倒すことに意識がいってしまうものだ。相対的な稽古である。相対的な稽古をしている間は、力の稽古、物質科学での稽古になり、争いになりがちである。
争いのない真の合気道の稽古をするためには、相手ではなく自分自身との戦いにならなくてはならない。絶対的な稽古、精神科学の稽古である。
しかし、この稽古をしようとしてもなかなか容易ではないものである。やるべき事や、やろうとしている事が、稽古をしている時のちょっとした気の緩みで、忘却の彼方へいってしまうのである。例えば、相手に一寸力まれたり、頑張られると「何を小癪な」となり、物質科学にもどってしまうのである。

そうならないためには心にしっかり働いてもらわなければならない。相手をどうこうするのではなく、己の心にしっかり働いてもらうようにしなければならないのである。相手との戦いではなく、己との戦いなのである。

合気道の修業は、肉体を鍛え、力(呼吸力)を養成し続けることも大事であるが、修業していけばいくほど、己の心の修業がますます大事になるはずである。