【第565回】  受身は奥義

合気道に入門して最初に習い、練習するのは受け身である。
何事も最初に教わることに極意や奥義があるといわれるが、合気道の受け身も奥義であると思う。
開祖は受け身に厳しかった。まずい受け身を取るとその受けを叱っていた。私自身も、二人掛け四方投げの受け身で、折り重なって倒れてしまい叱られた。しかし当時は、自分が未熟だからうまくできなかったので、年数が経てば上手くなるだろうと思っていたから、何故開祖が厳しく叱られたのか深く考えなかった。

まず、受け身は怪我をしないようにするために稽古をする。そして受け身を取っているうちに自然と体ができてくる。体ができて、力がついてくると、受け身は隙のない態勢や動きをつくると同時に、武術的にはいつでも反撃できる態勢をつくるためのものでもあるとわかってくる。
しかし、これでは受け身は合気道の奥義や極意であるとまではいえない。

合気道の技は手と足、そして息をつかって掛けるといっていいだろう。手は腰腹と結び、肩を貫いて、そして腰腹で手をつかい、また、足は右、左を交互に陰陽で規則的につかわなければならない。
これらの稽古は、日常の形稽古を通して身に着けなければならないのだが、なかなか難しい。相対稽古では相手がいるので、相手を意識したり、相手に負けまいとか、相手を何とかしようなどという煩悩がでてきて、本来の目標を見失ったり、忘却の彼方へやってしまうからである。

手先と腰腹を結べとか、肩を貫け、足を左右陰陽につかえと教えても、中々できないものである。具体的に体をどうつかうのか、そうすればどのような感覚になるのか等が分からないためであろう。他人から教えてもらうことには限界があるので、自分でその感覚を自得しなければならないことになる。

手と腰腹を結ぶ、肩を貫く、足の陰陽ができなければ、合気の技は決して上手く掛からないから、何とかしてそれを学ばなければならない。
これを学ぶ最良の方法が、合気道の受け身であると考える。
手と腰腹を結び、肩を貫き、そして足を右、左交互に規則的につかって受けを取るのである。これに息に合わせればいい。イクムスビやアウンの呼吸づかいである。相手をどうこうするのではなく、自分との戦い、自分への挑戦という事になる。

開祖は受けによって、合気道の奥義を教えようとされていたわけである。だから、まずい受けを取ると、合気道の奥義を教えようとされていたことに逆らうことになったので、激しく叱られたのだと、今になるとわかるのである。

受身には合気道の奥義がつまっていると信じ、頑張らず、居つかず、手先と腰腹を結び、肩を貫き、足を左右交互につかって受けを取ることである。合気の体づかいの奥義が身に着くはずである。勿論、受け身にはまだまだ沢山の奥義がつまっているはずである。どんなに高段になっても、受け身からも奥義を見つけ、身に着けていかなければならないだろう。受け身を取らなくなった、合気道の上達はそこまでであるはずである。