【第552回】  美しいもののみ機能的

合気道開祖の技や動作が美しいことは誰もが認めるだろう。それに超人的な強さは云うに及ばない。受けの相手が何人いようと思うように投げ飛ばし、息ひとつ乱さず、技や動きは美しい軌跡と拍子でやられているのである。その美しさは、どの映像を見ても、例外はない。

美しいとは、「無駄がなく、必要なものはある」と定義できよう。無駄な動きや動作があれば、美しくないし、必要な動きや動作が欠けても美しくない。我々の技や動作が美しくないのは、余分な無駄なものがあり、そして欠けてはならない必要なものが欠けているからである。

合気道においての、「無駄」と「必要なもの」は何かと考えると、宇宙の営みから外れたものが「無駄」であり、宇宙の営みに則ったものが「必要なもの」だと考える。
例えば、足や手が陰陽で左右交互につかわれなければならないのに、足を左・右・左・右とつかわれるところ、左・右・左・左等とつかえば、四歩目の左は「無駄」であり、そして必要な右が欠けていることになる。これは入身投げや一教裏でよく見かけるものであるが、全然美しくないし、技として効いていない。

「無駄があり、必要なものがない」ものは美しくないわけだが、いい技にもならないのである。つまり、技として機能しないという事である。
これは稽古をしていれば分かってくるはずである。

合気道は技を練って精進していくのだが、技は美しいものにしていかなければならない。美しい技になってはじめて、その技が効くようになるからである。

代々木のオリンピック会場を建築し、世界30か国以上で建物や都市の設計をした建築家丹下健三さんが言った言葉がある。「建築は美しくなければならない。美しいもののみ機能的である」である。
代々木の体育館の屋根などの局面の美しさが、屋根の重量を支える機能を果たしているというのである。

合気道は武道であるから、やはり、鉾を止めなくてはならない。しかし、鉾を止めるためといって、無駄がある、必要なもののない技や動きで稽古してはならない。宇宙の営み・法則に則って稽古をしなければならないのである。

合気道は真善美の探究であると教わっている。美を探究しなければならないのである。美しくないのは合気道ではないのである。
美しいのは、真であり、そして善なのである。真や善を稽古で探究するのは難しいが、美の探究はできるだろう。何故ならば、真と善は目に見えないが、美は目でも見えるからである。

己の技を少しでも美しくしていくことが、合気道での上達をもたらす技の錬磨ということにもなるだろう。