【第551回】  「かげ」に入る

合気道は相対で技を練り合って稽古をしていく武道であるが、試合や勝負がないこともあって、稽古が武道的感覚を研ぎ澄ませる事を軽視する傾向にあるように思える。
武道的な感覚というのは、昔のような殺す、殺されないというような感覚ではない。合気道は相手をやっつけるため、または、人に負けないために稽古をしているわけではない。
しかしながら、合気道は武道であるから、武道としての稽古をしなければならないはずである。

それでは、合気道の武道としての稽古とはどのようなものなのか。
私が思うに、@先ず、危険を察知し、危険を避けることである。例えば、相手の前に立ち止まったり、相手の領域(円内)に入らないこと、入ればやられたと感じる感覚である。A技を掛けている間、受けの相手に第二、第三の攻撃の隙を与えない事である。B技を掛ける際は、常に相手の死角、死角に入り、相手を制することである。C技を掛けた相手に逃げられたり、悪戯などされないように、しっかりと抑えるものは抑えることである。

これは武道としての合気道としてやるべき最低限であるだろう。高段者になれば、まだまだやる事が増えてくる筈なので、ますます、厳しい武道の稽古になるはずである。
それを分かりやすい例で説明する。上記のB(技を掛ける際は、常に相手の死角、死角に入り、相手を制する)を武道的に更に厳しく稽古すると、次のようになるだろう。

入身投げや一教裏では、相手の死角に入らないと技にならないことは明白である。初心者は入身で相手の死角に入れきれず、また転換も十分でなく、そして己の腹を相手に向けてしまうので、己の円の動きに相手を導くことができないのである。

この入身転換が十分できて、相手の死角に入いることができれば、相手を自由に導くことができるわけだが、そのためには、気の体当たり、そして体の体当たり、入身、転換が必要であるが、ここまでは誰でも稽古しているはずである。

さて、武道的な稽古の次の段階として、これまでの空間的な死角に入るのではなく、相手の心的、精神的な死角に入るのである。
それを有川定輝先生は、「かげに入る」と言われていた。「かげ」とは、「心」ということであるとも言われていたから、相手の「心」に入るということになる。「かげ」は「影」「陰」となるだろう。
この死角である相手の「かげ」の「心」に入れば、相手は参ったと納得し、こちらの導きについてくるものである。体を操作するより高尚である。

死角の「かげに入る」と、そこは相手の陰(いん)の心となるから、そこは相手が虚の心になっていることになる。因みに、陽の心、実の心は、攻撃する心であり、陽の体は前に出ている手・足・腹などである。

「かげに入って」、相手の心を捉えてしまえば、虚になった相手を導くのは容易である。言葉は悪いが、生かすも殺すも自由自在ということになる。
このような稽古が、武道としての合気道でないかと考える。