【第510回】  「見える稽古」「見えない稽古」

合気道は、形(かた)をくりかえし稽古する形稽古が基本である。合気道の形は、ひと息で収めることができるようにシンプルである。形はあらかじめ順序と方法を決めて練習するものであるから、誰が見ても、あの形、この形とわかる。

しかし、ふしぎなことに、合気道の形はいくら繰り返し稽古しても、あきないのである。半世紀も稽古しているのだから、もういいやと思ってもよいようだが、あきることなく続けているし、さらに続けなければと思うのである。

あきずに稽古を続ける理由は、形をくりかえしやればやるほど、うまくなるからである。うまくなるとは、受けの相手が倒れるとか、技が効くようになるだけでなく、技の理合い、己の心体と宇宙の関係、合気道が目指すべきもの、等がだんだんとわかってくることである。さらに、合気道で求めているモノと事の奥底が深くなることを感じ、まだまだ稽古を続けなければならないと痛感することでもある。

形稽古を通して技を錬磨していくわけだが、形稽古における技づかいは誰でも一生懸命にやるものである。技がうまくなると、受けの相手をうまく倒すことができるからである。また、これは己にも、又受けの相手にも、そして周りの人にも見えるモノであるから、「見える稽古」ということになる。

だが、稽古には「見えない稽古」もあるのである。大きくいえば、初心者などの形稽古は「見える稽古」であり、技づかいのうまい上級者の形稽古の中の技の錬磨などは「見えない稽古」といってよいだろう。実際、形稽古の形はわかっても、その中の技はなかなか見えないものである。

形稽古における、形で相手を倒そう、決めようとする「見える稽古」は早く卒業して、技を練っていく「見えない稽古」に入っていかなければならない。なぜならば、見えるモノは有限であるから、必ず限界の壁にぶつかって、先に進めなくなるからである。見えないモノは無限で、いくらでも続けることができるものであり、これは合気道の基本の考え方である。

また、これとは別な「見えない稽古」がある。この稽古が身につけばわかってくることだが、上記の技を錬磨していく稽古と、本質的には同じことなのである。それは相対での形稽古以外の稽古、厳密にいえば、すべての稽古において「見えない稽古」をしなければならない、ということである。

例えば、形稽古の前に準備運動をするときには、指導者の示す形を稽古人もやるだろう。ここで形だけをなぞってやるのでは、準備運動の意味はなく、効果もないし、時間の無駄ということになる。例えば、手首の関節の準備運動なら、合気道の息づかいであるイクムスビでやる、縦と横の十字でやる、手先と腰腹を結んで腰腹でやる、体の表からの力をつかう、天地の息に合わせてやる、等々によって、「見えない稽古」ができることになる。

このように、手首の準備運動ひとつにしても、「見えない稽古」にはこれで全て、これで終わり、ということはないのである。もちろん一度にすべてのモノ・事をやることはできないから、一つずつ身につけていくしかない。だから、何度も繰り返さなければならないのである。

このように、技だけでなく、準備運動でもやることはいくらでもあるものだ。それが、「見えない稽古」である。形の中に法則を見つけて、それをやっていくのである。舟こぎ運動、木刀の素振り、杖の素振り、一教運動、また、掃き掃除や雑巾がけ等、すべてで「見えない稽古」をしていかなければならない、と考える。