【第504回】  技の形稽古

合気道は、形稽古で精進していく。一教とか四方投げの基本の形を繰り返し繰り返し稽古していくのである。私など半世紀にわたって道場通いをしているから、基本の形を何千回、何万回も稽古しているはずである。しかし、あきっぽい私でも、合気道の基本の形の稽古はあきることなく、さらにやり続けていきたいと思うのである。以前から不思議だったが、今回はその理由を見つけたいと思っている。

我々が稽古している形は、「技の形」といわれる。合気道の技とは、宇宙の条理・法則、また宇宙の営みを、形にしたものだといわれている。従って、「技の形」とは宇宙の条理・法則を伴った宇宙の営みの技を、一教とか四方投げという形にしたものだと考える。

もちろん、技のない形もある。初心者などは、技ということがわからないから、技のない形でやるしかない。しかし、それでも、誰が見ても間違いなく、一教とか四方投げの形にはなっている。従って、技がなくとも形にはなる。この形は、いってみれば粗野な枠組みというところだろう。

合気道の稽古は、技の錬磨であるといわれる。宇宙の営みを身につけていき、宇宙と一体化することである。これを、開祖は「合気の鍛錬は、神業の鍛錬である」といわれている。

「技の形」の形稽古とは、大枠の枠組みを技で埋めていくことだと考える。一教でも四方投げでも、十字、螺旋などの宇宙の営みであろう技で埋めていくのである。そのためには、体と心と息を同じように宇宙の営みであろう技でつかい、動かしていかなければならない。つまり、形に技が詰まれば詰まるほど、よい「技の形」ができるし、技のつかい手が上手ということになる。

枠である形に技を詰め、埋めていき、枠が完全に技で埋まれば、その形は技で構成されることになる。これが神業ということになるわけだが、開祖はともかく、われわれ凡人たちには、神技はできても神業にはならないはずである。

従って、大事な事は、神業を目指さねばならないが、どこまでそれに近づくことができるか、そして近づこうとすることであろう。

ちなみに、合気道の一教とか四方投げの形を「技」といっているが、形が技で構成されれば、形は技であるから「技」となる、と解釈する。

技は宇宙の法則に則っているわけだから、法則がある。だから、その法則に則って技をつかうようにすれば、誰にでも技が身につくことなる。

しかし、問題はその法則が宇宙大に無限にあるだろうことである。一人の人間がどんなに頑張ろうが、一代、二代、数代ではすべての法則を含んだ技をつかうことはできないはずである。地域を問わず、人種を問わず、みんなで宇宙の法則を見つけ、技に取り入れていき、それを次の世代に継承し、更に新たな法則、条理を見つけて会得し、技に取り入れていくしかないだろう。これを、大きな意味の技の錬磨といってもよいだろう。

いうなれば、技も「技の形」も人類の遺産であると思う。われわれ世代は、次の世代である後進に対して責任があるのである。少しでも多くの宇宙の法則・条理を見つけ、会得し、技に形にしなければならないのである。だから、数少ない基本の形を、止むことなく繰り返し繰り返し稽古し続けるのである。

ちょっと余分になるが追加しておく。合気道を稽古している人の中には、誤解している人が多いようだ。例えば、合気道には形がないというから、自分の好き勝手にやってよいと思ってやっている等である。確かに、開祖は「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである」「武の極意は形はない」などといわれている。しかし、ここで「武の極意は形はない」といわれているのは、極意に達すれば形がなくなる、というのであり、極意に到達するためには形を大事にしなさい、ということであるはずである。

もう一つの誤解の例として、形で相手が倒れると思っていることがある。形で人を倒すことや、抑えることなどは、不可能なのである。形でそれをやろうとすれば、魄の力に頼るほかない。技がお留守の形でやると、どうしても力に頼ろうとするし、頼ってしまうので、体力や腕力の強い者が優先権を握ることになる。一時的に相手を倒すことはできるだろうが、合気道の稽古で求めている大事なものが身につかないばかりか、魄は有限であるから、稽古を続けていくこともできなくなるはずである。つまり、早期引退である。

技が入っていない形の稽古になれば、体力勝負になり、合気道は違った方向に向かうことになる。今の物質文明、力の社会では、どうしてもその方向に向かう危険が待ち受けているから注意しなければならない。

早期引退をしないためにも、技が入った技の形の稽古をしていかなければならない。