【第494回】  技を業に

合気道では、「わざ」という言葉に、二種類の漢字が使われる。「技」と「業」である。一般的には、「技」がつかわれる。 例えば、関節技、技をかける、技の錬磨、技を生み出す、技の形、奥技、みそぎ技、妙技、などである。

「業」を辞書で見ると、「なんらかの意図をもってなしたこと。また、その行為。おこない。振る舞い。務めとしてすること。習慣となっている行為。仕事。」とある。

合気道では、『合気神髄』や『武産合気』などで「業」もつかわれているので、そのいくつかを書き出してみると、次のようになる。

これらの例から、「業」とは「なんの意図ももっていない営み」である、と考える。それは、神の営みであり、宇宙の営みということになる。それ故、神業であり、神技ではないのである。神様はなんらかの意図をもって、何かを行なったり、営まないはずだからである。

「業」と対照的な「技」は、何らかの意図があり、意識してつかうものであるといえよう。人が宇宙の営みを形にしたものを得ようとするものである。我々が日頃から四苦八苦稽古しているのは、技である。そして、その技をどんどん精錬し、業になるように錬磨をしているはずである。これが技の錬磨であり、技の錬磨を業にするのが神業の鍛錬ということであろう。

我々は、合気道の技を錬磨して、宇宙の業、神業を会得し、宇宙の営みを身につけて、宇宙と一体化しようとしているわけである。錬磨している技が、神業、宇宙業(営み)となり、なんら意図することなく、無意識でつかえるようになればよいのである。

という訳で、錬磨した技を、業にしていかなければならない。