【第483回】  相手とも十字

これまでも書いてきたことであるが、合気道は十字道ともいわれるように、十字を大事にする。それは、合気道が宇宙の営みを形にした技を錬磨して精進していく武道であるからである。そのことを、開祖は例えば「千早ぶる神の仕組みの合気十(どう)八大力の神のさむはら」と詠まれている。つまり、十字を無視しては合気道の技は活きないし、死に技になってしまうはずである。

これまでは、人の体は十字に機能するようにつくられているし、十字につかわなければならない、と書いてきた。手を十字につかう、足も撞木の十字で進める、腰も十字につかう、息も縦と横の十字につかう、等々である。

また、己自身の体や息を十字につかうことの重要さも書いて来たが、今回は相手との十字が大事であること、つまり技をかける相手とも十字になるようにしなければならないことを書いてみることにする。

その前に、十字の意味を確認しなければならないだろう。ここでの十字、合気道における十字は、キリスト教会に飾ってある十字架の十字とはちょっと違う。目に見える十字架の十字ではなく、目には見えない十字である。従って、十字架のように縦と横の棒とか軸があって、四つの直角がある十字ではなく、一つの直角のある縦と横の軸が合気道の十字である。

このように一つの直角を十字と感じるためには、イメージが大事である。合気道を修業する者にとっては、イメージは重要であり、イメージが貧困では精進が難しくなるだろう。例えば、この十字もそうであるし、天の浮橋、魂魄、愛、顕幽神界、円、陰陽・・・等のイメージも持たなければならない。イメージによって、見えないモノが見えるようになるはずである。

合気道は技を錬磨して精進していくわけだが、要は技を磨くということになるだろう。己のかけた技がよいのか悪いのか、どれくらいよいか悪いかは、一般に相手が倒れるか、どのように倒れるか、でほぼ判断されるだろう。

そして、相手が倒れれば、己は強いとかうまいと思って、内心、満足するだろう。なぜ他人のことまで分かるのかというと、簡単なことであるが、それは自分もそうやってきたからである。また、後輩や初心者の稽古を見ると、各自がその過程において、私自身がやってきたことと同じようなことをやっているからである。

さて、自分の経験からいえば、自分の技の正しい評価はなかなか難しいものである。その理由は、技の良し悪しや、あるいは技の程度のための判定基準がないからである。判定基準がないから、自由に判定したり、それ以上レベルアップしなくなったりしてしまうのだろう。

合気道にはそのような判定基準はないが、よい技をつくるための技の錬磨のための道は示されている。つまり、技の判定は、合気の道に沿っているか、その道をどれだけ進んでいるか、ということになると考える。

合気の道、合気道が目指し、技が目指すその一つは、真善美である。宇宙の意思、宇宙天国建設のための生成化育に逆らわず、それを邪魔しないで、そのお手伝いをし、多くも少なくもなく、無駄なく美しくしていくことである。

真とは善であり、そして美である。また、美は真であり善である。つまり、真に美しいものは、何ものをも納得させ、生命力を与えるなど、生きるすばらしさを与える。

合気道の技も、真善美を追及しなければならない。従って、少しでも美しくしなければならない。合気道の技の美とは、宇宙の営みに則っていること、日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満の十字の営みに則っていること、等である。

見えない宇宙の営みを技で形に表わすのは容易でないが、技は形になって現われる。その形から、その技がどれだけ十字に則っているかや、技の良し悪しを判断できる、と考える。

我々凡人には難しい十字の技づかいを、神業をつかわれた開祖と、私が師事する故有川師範の何枚かの写真で紹介しよう。

これらの写真を見ると、このように美しい十字で技をかけられれば、相手も納得して倒れるだろうし、見ている者も異議を挟むことができないだけでなく、盤石でスキのない美しさに感動するはずである。これが、真善美の極地ではないだろうか。

実際に技をかけても、相手を十字にしてかけないと、相手とぶつかったり、相手にがんばられたりして、相手は倒れてくれないものである。相手を十字に導くと、力をつかわなくとも、相手は自ら倒れるようになるのである。

しかし、相手を技で十字に導くのは、そう簡単ではないだろう。手先と腰腹とを結び、腰から力を出す等の他に、手と足、そして腰も十字につかわなければならないからである。まずは、己の体を十字につかえるようにしなければならない。