【第482回】  花を咲かせる稽古

“花を咲かせる”というと俗っぽい意味で取られるだろうが、ここでの意味は、「三千世界一度に開く梅の花」の梅の花を咲かせる、の意味である。もちろん、この梅の花の梅は、具象的な梅の木の花ではない。

開祖がかつて帰依されたことのある大本教では「三千世界、一度に開く梅の花
節分の煎り豆には花が咲く 鬼は内、福は内」と謳われている。煎り豆に咲く花は、通常の花であるはずがない。

また、開祖は「梅の花というものは五弁の花びらをもつもので、これを地、水、火、風、空という五大を示すものと考えれば、小さな梅の花でも宇宙というものを教えているといえるわけで、大宇宙の本当の魂が表に出たわけである」(「合気神髄」)と、梅の花を宇宙と捉えられている。

ちなみに、開祖はここで「三千世界一度に開く梅の花」を「大宇宙の本当の魂が表に出たわけである」といわれているのである。

晩年、本部道場における新年祝賀会において、白い着物と袴姿の大先生(開祖のこと。当時、我々はそうお呼びしていた)が新年のお言葉の中で「三千世界一度に開く梅の花」と述べられたお姿が印象的であった。しかし、私だけでなく、そこに居並んだほとんどの人にはその意味が分からなかったようで、突然のお言葉に戸惑う様子に、私も戸惑いながら、おかしさを感じたことを覚えている。

あれから50年たったが、頭のどこかで「三千世界一度に開く梅の花」の意味、大先生がなぜ「三千世界一度に開く梅の花」と事あるごとに唱えられたのか、を考えていたようである。それが、最近、ようやく分かってきたように思う。というよりは、自分なりに考えをまとめることができてきたように思われる。

「三千世界一度に開く梅の花」については、さらに研究して別に『合気道の思想と技』に書いてみたいと思っている。だが、思うに「三千世界一度に開く梅の花」とは、魂が魄の上になり、魂が魄を導く世界になる、ということであろう。

大先生が「三千世界一度に開く梅の花」と唱えられた意味は、これまでのように魄の力に頼って稽古をするのではなく、これからはその魄を土台にし、魂(心、精神)が上になるような稽古をしなければならない、とわれていたのだろうと考える。

しかしながら、それは容易ではない。それまでの魄主体の慣習と己の考えを180度しなければならないからである。また、その変更の仕方、そしてその結果が本当によしとでるかどうかが分からない不安もあるからである。

合気道は武道であるから、技をかけて、相手は倒れなければならない。しかし、腕力や体力の力でなく、心(魂)で倒れるようにするのはそう簡単ではない。力はなければならない。ただし、その力を直接つかうのではなく、その力を土台として控えさせた上で、心(魂)をつかわなければならないのである。

心をつかうためには、息づかいが大事である。心で肉体をつかうわけだが、その心と肉体を結ぶものが息であるからである。イキと心と肉体の統一が大事であるのである。

しかし、魂(心)が上になって、己の肉体をつかい、相手を導くようになってくると、これまでに経験しなかったり、できなかった事が、できるようになってくる。例えば、相手とくっついて(結んで)相手と一体となる、倒そうと思わなくとも相手は自ら倒れていく、宇宙の法則に則った技も身につく、技がどんどん出てくる、等々。

花を咲かせる稽古とは、魂が魄の上になり、魂が魄を導く稽古である、と考えるのであるが、実際的には、そのような稽古をすることによって、パッと「花が咲いた」と思えるようになることであろう、と考える。

花を咲かせるためには、この他にもいろいろ注意しなければならない事がある。例えば、しっかりと目的をもって稽古をする、その目的に向かってやるべきことを一歩一歩、正道で着実に進め、近道をしない、等。

やるべきことを一生懸命にやっていると、ある時、できるようになる。これも一度に開く梅の花である、と考える。
自分の心にも花が咲くように稽古をすることである。