【第481回】  型では争いになる

合気道は難しいものである、とつくづく実感する。その難しさの理由のひとつに、スポーツや試合のある武道などと違い、自分の実力の程度が分かりにくく、自分が上達しているのか、また、どの程度上達しているのかが分かり難いことがあるだろう。

合気道は相対で技をかけ合い、受けを取り合って稽古するから、自分の力は稽古した相手との相対的な比較によって決まることになる。相手をうまく投げたり、技を決めることができれば、自分はうまいと思うし、そうでなければ自分は下手だと思うだろう。また、受けを取っても、相手が自分より上とか下とかが分かるものである。

だれでも上手になろうと稽古するわけだから、技が相対の相手に少しでもかかるようにしたいと思うはずである。特に5年、10年と稽古を続けて、体がある程度でき、基本の技(実は型)を覚えた頃になると、相対の相手を何とか倒そう、きめようとするものだ。

ここに、合気道の次の難しい問題が出てくることになる。それは、合気道の先生や指導者は、昔から原則として、型は教えるが技は教えないものである。だから、型は教えてもらえるが、技は自得していかなければならない。技を自得せずに相手を倒そうとすれば、型で相手を倒すことになるが、型を知っている相手は倒れないはずである。それでも倒れるとしたら、相手が非常に弱いか、演武会のように受けを取ってくれているだけである。技も、自得が難しいものなのである。

型では、人は倒れないものである。合気道の型は、建物の基礎の鉄筋のようなもので、必要不可欠ではあるが味もそっけもないように思えるし、また樹の幹のようでもある。これらが機能を果たすためには、これに屋根や壁や窓、または枝や葉や花をつけていかなければならないだろう。

合気道の型には、枝葉の技をつけなければならないのである。相手を倒すのは型ではあるが、技を伴い、技で構成される、技がつまった型ということである。

型だけで相手を投げたり抑えようとすると、手を振り回したり、腰をひねったりと、無理な体づかいになる。これでは相手が倒れないだけでなく、見苦しいし、そのまま続ければ体を痛めること間違いない。

ここで3つ目の合気道の難しさが出てくる。それは、合気道の稽古は、矛盾の連続、正の否定・否定の肯定であるということである。

型で相手を倒すようになるまでは、型を身につけ、心体を鍛えなければならない。しかし、今度はそれを否定しなければならないのである。力や勢いが出るようになったら、今度はそれを否定するのである。正確にいえば、それまで培った力や勢いを後ろに控えさせ、技や心を表に出して稽古をするように、稽古法を変えるのである。

これは容易ではないはずである。強い力は正であったのだが、一度これを否定するのである。これまで頼ってきたものを否定する訳である。しかし、それをしないと先に進めないのである。一度否定すれば、それよりも強いものを獲得できる。それができた時、一度否定していたものが2倍、3倍に活用されるのである。つまり、否定の肯定ということである。

一つのやり方に固守していると、先に進めないし、上達できない。まずは、型を身につけるのであるが、型では相手は倒れないと思わなければならない。相手にぶつかったり、争いが起こるとしたら、それは型でやっていることになる。