【第478回】  活きた技の習得は自己の不断の稽古で

合気道のおもしろさの一つに、多くの矛盾があっても、その各々の矛盾が表裏一体となっていることがある。

その矛盾の一つに、最近、興味をもったこととして、「合気道は容易である」と「合気道ほど難しいものはない」という相反するものがある。

合気道に入門し、稽古を始めて数年間は、合気道はなんと簡単なものだと思っていた。実際、それまでやっていたスポーツに比べれば、楽なものだった。試合もないし、形もそれほど多くはなく、1,2年で覚えてしまえる。受け身ができて、先輩方の受け身が取れるようになると、合気道はできたと思ってしまうのである。

しかし、今はまったくこの逆で、「合気道ほど難しいものはない」と思うのである。その理由は、例えば、

  1. 合気道には試合や勝負がないので、己のレベルや上達の状態などが分かりにくいことである。相対で技をかけあって稽古するので、ある程度はそれが分かるが、満足いくようにはわからない。
  2. 合気道は宇宙の営みを形にした技を身につけて稽古をするが、形がなく、目に見えないものを追い求めている。
  3. 合気道の目標は、宇宙との一体化であるから道は遠く、終わりがない。
  4. 合気道は禊であり、己だけでなく世の穢れを除くためにも禊がなければならない。
等々、ミクロとマクロの稽古、顕界と幽界の稽古、超時間的・超空間的な稽古をしなければならないということがあるからである。これは、他の武道やスポーツにはないものではないだろうか。

合気道は難しいと思うようになると、やるべきことがどんどん湧くように出てくるものである。合気道だけでなく、習い事はすべて同じであると思うが、やるべきことを一つずつやり、会得するの繰り返しと積み重ねである。そこに、近道はない。薄紙を一枚一枚重ねるように、稽古の成果を積み重ねて精進していくしかないのである。

単に稽古時間に出て、指導者の示す通りの形稽古で相手を倒せばよい、ということではない。相手が初心者だったり、力が弱ければ、倒れてくれるわけだから、相手が倒れる倒れないは、上達の正しい基準にはならない。

だが、人は誰でも自分が進歩上達しているかどうか、どれぐらい上達しているか、知りたいものである。その基準は己自身であり、また、受けを取ってくれる相手である。

この己自身が判断の基準になるためには、基準になる己を純粋培養しなければならない。つまり、相対的ではなく、絶対的な基準を持つということである。相手や他人との比較した相対的なものではなく、宇宙と一体化すべき自分自身を想定し、それを基準とし、そして物差しとして、どれだけ目盛りが上がったかを見るのである。

他人には、その目盛りは見えないだろう。だから、他人の評価など気にする必要はない。だが、相対で稽古する相手は、かけた技がどれくらい効いたか、心体で感じ、分かるはずである。それは実際、かけた側にもわかるだろうし、外から見ていても感じたり、分かるはずのものである。

だから、相対稽古では、いろいろな技や課題を試すとよい。相手を投げたり、押さえたりするだけではなく、自分の考えていることを試すのである。その思考とやり方、つまりプロセスがよければ、受けの相手は喜んで倒れるはずである。よくなければ倒れないか、相手は不満顔で倒れるだろう。

自分の考えていることや課題を、稽古時間内でやることは、特に初心者には難しいだろうから、稽古が終わった後の自主稽古でやるしかないだろう。

初心者は稽古時間だけ一生懸命に稽古をすれば十分で、わざわざ自主稽古など必要ない、と思うかも知れないが、それでは上達はない。なぜなら、開祖が自主稽古をするようにといわれているのだし、合気道本部道場では稽古の後に自主稽古ができるように、時間まで用意されているのである。

その理由として開祖は、指導者はどうしても教えの一端しか教えることはできないから、後は自分で修得しなさい、と次のようにいわれているのである。
「指導者ノ教導ハ僅ニ其ノ一端ヲ教フル過ギズ之ガ活用ノ妙ハ自己ノ不断ノ練習ニ依リ初メテ体得シ得ルモノトス」(「武道」 植芝守孝高著 昭和13年)。また、自主稽古をしないと、会得できず上達がない、ともいわれているのである。

せっかく自主稽古の時間と場所が用意されているのだから、ありがたく稽古させてもらい、合気の真髄に近づいていきたいものである。