【第476回】  何事も初めが肝心

何事も初めを誤ると、事を失敗するか、うまくいかないものである。これは、大きい意味での事にも、また小さい意味の事にも、当てはまるであろう。

例えば、大きな意味での事としては、国家プロジェクトやビジネス上のプロジェクトから学問や研究、そして習い事などがあるだろう。ここで初めに誤りやすい事として、例えばスタート地点と目標のゴールが、第三者から見るとつながってなくて、またつながる可能性もない、つまり方向性が違っていることである。

合気道に関していえば、合気道の目標、哲学、思想にそぐわない考えを持って、合気の道とは異なる方向を目指してしまうことである。例えば、合気道を、敵を倒すため、強くなるための術として身につけようとしたり、体を鍛錬するため、等と思って稽古を始めることである。

次に、小さい意味での事においても、はじめが肝心である。合気道に関してなら、大きい意味におけると共に、小さい意味での事も非常に重要である。今回は、このミクロの世界においての初めの重要性、初めが肝心、を研究してみたいと思う。

合気道は自分から攻撃することはないので、稽古も受けの相手の攻撃から始まる。まず相手が手首をつかんで来たり、手刀で打ってくるわけである。この相手と接するときの接点と、その時点が、“はじめ”になる。この初めの接触が肝心であり、大事にしなければならない。実際、この初めの接触を大事にしないと、技はうまくかからないものである。

相手との接触には、難易度があると思う。自分にとってやさしいものから難しいと思われるものを順に書いてみると、基本的には、片手取り、諸手取り、正面打ちとなる。これに加えるに、両手取り、横面打ち、後ろ両手取りなどがあるわけだが、その難易度は人によって違うようであるから、はじめの肝心な接触を身につけるには、この基本中の基本である片手取り、諸手取り、正面打ちで稽古するのがよいと考える。そして、肝心のはじめの接触を、両手取り、横面打ち、後ろ両手取りで、どれだけできるようになったかを知り、また、どれぐらいできるか試してみるのがよいだろう。

正面打ちのはじめである接触は、難しいものである。なぜならば、相手が打ってくる手刀とこちらの迎えに行く手が物理的にぶつかることになり、ぶつかれば弾いてしまうか、押し潰されてしまうことになるからである。

相手が打ってくる手とはぶつからず、弾かずに、くっつき、結ばなければならない。それをしないと、技にはならないし、その後、苦労することになる。そういう訳で、この相手との接触が、正面打ちの“初め”であり、“肝心”なのである。

そこで、相手が打ってくる手にどのように接触すればよいか、を考えなければならない。まず、大事なのは、気持ちと体が逃げない事である。体と気持ちを相手にぶつける、いわゆる気の体当たりと体の体当たりをしなければならない。

そして、息に合わせて、手と足の陰陽の組み合わせで手を振り上げ、手掌の手刀で相手の打ってくる手と結びながら、相手の中心を抑えるのである。手刀以外のところで接しても、力負けしてしまったり、腰からの力を使えないものだ。前にも書いているが、手刀と腰は結びついているのである。

相手の手とこちらの手刀が接触した時点で、相手と一体化し、相手を導くことができるようになる。この時点が、正面打ちの“初め”となり、“肝心”なのである。

なお、片手取りでの接触は、正面打ちよりも容易なことは確かであるが、実はこれも難しいのである。相手のつかんできた手を弾いてしまったり、手を振り回して外してしまったりしてしまうものである。せっかく相手がつかんでくれるのだから、相手の手は離そうとしても離れないように、くっつけておかなければならない。

そのためには、自分の心体が“天の浮橋”に立たなければならないのである。相手を倒してやろうと思ったり、力んだりすれば、“浮橋”から転落してしまう。片手取りでも諸手取りでも、相手の持っている手とくっつき、相手と結んで一体化したときが、“初め”ということになる。だから、この“初め”を無視したり、大事にしないと、技は効かず、腕力や体力などの力をつかわざるを得なくなるのである。

しかし、この“初め“はまだ我々のような未熟な者のものであって、この相手との接触時点の“はじめ”より、さらに肝心な先の“はじめ”があるようだ。例えば、準備動作などといわれるが、気勢の充実、構え(足を六方に開き、半身入身合気の姿勢)、「天の浮橋に立つ」、天の気と天地の呼吸を合わせる、あるいは、宇宙との一体化を図ったり、相手の気持ちを取り込んでしまうなどは、相手に触れる前の“初め”であるだろう。これは、今後の課題としていきたい。

まずは、相手との接触時点を“初め”とする稽古をしなければならない。相手を倒すことばかり考えて稽古すれば、合気の道とは違う方向へいくことになる。違う方向に向かっていることに気がついたときには、後戻りが難しくなっているだろう。何事も初めが肝心であることを肝に銘じて、稽古しなければならない。