【第471回】  こころの稽古

合気道は始めた頃に考えていたものとは違って、非常に複雑で、繊細で、奥深いものであることが、最近身にしみてわかってきた。つい最近までは、技をかけて相手が倒れれば満足し、相手を倒すために稽古をやっていたようなものだった。

年を取ってきたおかげもあるが、開祖の教えと先生方の導きによって、合気道の稽古、そして己自身も変わっていかなければならない事を悟ってきた。開祖は、合気道は日々変わらなければならない、といわれている。それは、宇宙が生成化育で常に変わっているからである。

これまでの稽古は、魄の稽古、相対的稽古、物質世界、闘争世界の稽古であったといえよう。このような稽古は、開祖がいわれるように、必ず限界があり、壁にぶつかったり、体を壊すようになるから、変えなければならないものである。

しかし、これまでやっていたことを止めて、新しい稽古をやるのは、容易なことではない。今までやってきた体のつかい方、技のやり方などを忘れて、ゼロから再スタートしなければならないのである。力は弱くなり、技は今までのようには効かなくなるだろう。よほどの決心がいるし、忍耐もいる。それをやるかやらないか、どうやるのか、は己のこころの問題である。

人はこころを持っているし、また、魂ともいわれる真のこころも持っている。合気道を修業している人も、こころや真のこころをもっているわけであり、それが己に語りかけ、導こうとしているはずである。それは、魄の稽古から魂の稽古へ、顕界から幽界へ、見える世界から見えない世界へ等であり、あるいはもっと深い稽古へ、また相手を対象とする稽古から己の稽古へ、等々である。

つまり、肉体、魄の稽古からこころの稽古へと変わっていかなければならないわけである。己のこころに耳を傾け、こころがいってくれること、やるべきことをやらなければならない。また、こころや先人が教えてくれたことを、毎回の稽古で重点テーマとして錬磨しなければならない。例えば、手の十字とか足の陰陽などというテーマを技に取り入れ、身につけていくようにしなければならない。

はじめの内は、この重点テーマもすぐに忘却の彼方にいってしまい、稽古が終わってから後悔することであろう。相手を倒そうとか、技を決めようなどと思うと、稽古すべきテーマを忘れてしまい、こころは乱されて何もいってくれなくなるのである。これは、こころの問題であり、こころの稽古ということになる。

初心者はやった、やられたという肉体的な稽古をしっかりしなければならないが、高段者はこころの稽古に入らなければならない、と考える。