【第470回】  摩訶不思議

本部道場では我々が稽古していると、開祖が突然お入りになって、お話しされることがあった。どんなお話だったかというと、『合気神髄』に書いてある通りである。本を読んでも難しいはずだが、それを耳で聞くわけだから、なおさら分からなかった。

それに、当時は開祖のお話が分からないだけでなく、真剣に聞こうとしていなかった。いつも、お話が早く終わって、稽古したいと思いながら聞いていたのである。しかし、不思議なことに、真剣に聞いてなかった開祖のお話が耳に残っているようで、年を取ってくるにつれ少しずつ思い出されるのである。

そのひとつに、「摩訶不思議」がある。開祖は、合気道は摩訶不思議でなければならないと、何度かいわれた。当時、つまり入門して間もなくの血気盛んな20代の時であったが、これを気合で敵を吹っ飛ばすようにならなければならない、等と解釈していた。

開祖の生い立ちとか、修業の記録を勉強してくると、開祖が合気道をつくり上げるまでに数々の挑戦を受け、多くの人たちを納得させ、敬服させてこられたことが分かってきた。その基本こそ、「摩訶不思議」であったと思う。

「摩訶不思議」とは、当人にとっては至極当然だが、他人がそう感じ、思う事ではないか、と考える。例えば、相撲取りの天竜さんが開祖の腕を取ってねじ伏せようとしたら、逆に跳ね飛ばされてしまったことがある。天竜さんは、その時の開祖の腕は人間のものとは思えなかった、と話した。つまり、天竜さんにとっては、摩訶不思議だったことになる。

「摩訶不思議」とは、他人が、これは自分にはできない、どうしてそのようになるのか、またできるのかも分からない、そのようなことが人間にできるわけがなく、できるのが不思議だ、等と思うことだろう。

しかし、開祖ご本人にとっては摩訶不思議なことではなく、至極当然だったであろう。超人的な修業を積み重ねてこられた結果であり、ご本人はそのことを知っていたからである。

「摩訶不思議」になるためには、次元が違わなければならないだろう。同じ次元での競争や勝負では、勝った負けた、早い遅い、強い弱い、等は分かっても、摩訶不思議とは思われないものだ。次元が違ったことをやられたり、見せられたりするから、その次元にいる人が摩訶不思議に思えるのである。

開祖が、合気道は摩訶不思議でなければならない、といわれた意味は、現実の世界、目に見える世界、力やモノが優先する世界、つまり、魄の世界ではなく、魂の世界の、魂の合気道をしなければならないということだった、と考える。