【第460回】 技は真似する、盗む

合気道は技の錬磨を通して精進していくが、通常は、正面打ち一教とか片手取り四方投げなどの形を繰り返し稽古しながら、宇宙の法則に則っているといわれる技を見つけ、身につけていくのである。これが技の錬磨である、と考える。

我々が稽古している形には、技がぎっしり詰まっているはずである。開祖は、この形を「気形」といわれたと考える。即ち「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である」といわれているのである。ちなみに、鍛錬法とは呼吸力鍛錬法のことであろう。

要は、合気道の稽古の主な稽古は、形(気形)を覚え、身につけていくことと、呼吸力の養成、ということになるだろう。

一通りの形を覚えることは容易であり、誰でも1、2年で覚えてしまえるだろう。そして、晴れて初段の黒帯となるわけである。しかし、ここで多くの稽古人が勘違いしてしまう。形を覚え、黒帯となって袴をはいたことで、自分は合気道の技が使え、強くなった、うまくなった、と思うのである。これは、誰でも経験することだろう。

しかし、だんだんと自分の技が効かないことに気がついてくるだろう。技が効かないのは当然で、ふしぎな事ではないのだが、そこになかなか気付かないものである。技のない形では、相手を導くことも倒すこともできないのである。

そこで、それまで稽古をしてきた形に、技を入れていかなければならない。形に技を入れるとは、例えば、正面打ち一教に、足や手の陰陽、手や体の十字、十字からの螺旋、円のめぐり合わせ等々、宇宙の営み・法則に則った技を入れていくことである。

しかし、この形に技を組み込んでいくことは、容易ではない。何といっても一番の問題は、形には技が入っていなければならないということが分からず、信じられないことであろう。技のない形で、相手を無理に抑えよう、倒そうとしても、相手もその形を身につけているわけだから、よほど力に差がなければ、相手を制することなど不可能である。それでも相手を倒そうとすると、腕力にものをいわせなければならなくなり、そして、争いになってしまうわけである。まずは、形では人は倒れてくれないことを認識しなければならない。

次には、形に技を入れようと思っても、すぐにできるわけがないのである。なぜならば、宇宙の法則である技は、誰も教えてくれないようだからである。合気道の道場は、先述のように(気)形の稽古が主な稽古で、その稽古の中で各人が自分のレベルで技を各々見つけ、身につけていかなければならないのであって、同じ技を全員で稽古するシステムではないのである。

技を大勢の稽古人にいっせいに教えるのは、非常に難しいことである。技を本当に教えるには、かつての柔術などのように、個別で、一対一かほんの少数の稽古人を相手に教えることしかできないだろう。

本来、合気道の技など、教えることは難しいと思っている。よほどその人をよく知っていれば別だろうが、人に教えるのは難しいはずである。なぜならば、その人に、それを受け入れるだけの力がなければ、分からないし、身につかないからである。役に立つようなことをいっても見せても、馬耳東風である。

モノを見るにしても、聞くにしても、自分が持っているレベルでしか物にできないものだ。他人はこちらのレベルに合わせていったりやったりはしてくれない。そのような消極的な学び方ではなく、積極的に学んで稽古すべきであると思う。技も積極的な稽古で学んでいかなければならないだろう。

積極的な稽古のひとつに、「真似する」「技を盗む」がある。これは自分のレベルで真似したり盗むことができるから、誰にでもできる。

だが、これも容易ではないようだ。とりわけ5年、10年と稽古を続けてきた稽古人で、己の稽古法が一番だと思っている人には難しいだろう。かえって白帯の初心者の方が、相手のやり方を真似しよう、よいところを盗もうと、積極的に稽古するようだ。白帯みんなではないにしても、大半の白帯はこちらの技を少しでも盗もう、真似しようとする。そうすると、ああ、これなら上手になるだろうと思い、少しでもたくさん盗ませてやろうと思う。

相手がこちらを真似したやり方で技をかけてきて、それが効くとうれしくなるものだ。相手が技を盗み、身につけてくれたことに乾杯!であり、その技が法則に則った技であることが証明されることでもあるからである。

もちろん、どんな相手からも、誰からも、何からも、学ぶことはできるわけだから、いつも学ぶことを続けていかなければならない。

「真似すること」「盗むこと」は、上達を促す積極的な稽古である。もしこれでよいと思って、出来上がってしまうようならば、上達は止まることになるだろう。