【第456回】 武道的感覚で稽古

合気道は武道である。武道の定義にはいろいろあるだろうが、ましてや合気道の定義、つまり開祖が言われている「武」は独特のものであって、さらに定義が難しくなる。

例えば、合気道は相手に勝つことでも、敵に勝つことでもない、というのである。従って、そのための稽古はしないし、試合もなく、試合厳禁である。

合気道の稽古は、平和的で平等である。相対で稽古をするが、技をかける側(取り)と受けを取る側(受け)がきまっていて、取りが右と左、表と裏の4回技をかけると、次は受けを4回取った側が取りになって技を4回かけ、終わるとまた受けになる。相手がどんな古参であっても、新人であっても、また強くても弱くても、受けは取らなければならないし、どちらも同じ回数の取りと受けをとらなければならないのである。このようなすばらしい稽古法は他にはないだろう。

しかしながら、合気道の教えでもあるわけだが、物事すべてに裏と表がある。平和的で平等な合気道の稽古システムにも、陽の裏に陰の影があるのである。

以下に、いくつかの例を挙げてみよう。

○技をかける取りが、相手の受けは受けを取るだけで、決して攻撃したり、技を仕かけたりはしてこない、と安心してしまう。受けも、最初に一度攻撃をすれば、あとは受けを取ればよい、ということになる。

もちろん、この考えは間違いである。受けは初めに攻撃するが、受けの役割とは初めの攻撃と最後の受けだけではない。受けの役割とは、相手にスキがあれば攻撃することであり、常に攻撃をしなければならないという役割を担っているのである。その緊張感が、技をかける取りにも緊張感を与えると共に、技を上達に導くのである。

そのためには、技をかける側は、受けの相手が受けを取るだけのものであるという思い込みや期待をしないことである。また、受ける側も、スキあらばここで当身を入れられる、押さえつけることができる、等と感じながら、受けを取っていかなければならない。もちろん実際にやるわけにはいかないから、気持ちの上でということになるが、よく知りあった同士なら実際に当身を入れたり、抑える稽古をするのもよいだろう。

○危険を察知することに鈍感になる。

上記とも関連するわけだが、役割分担で安心しきってしまうと、第三者から見れば危険な位置にいるとか、相手の円の中にいるとか、手足を無造作に出したり進めたりしてしまうことになる。

また、手が自分の中心線から外れたり、腰腹との結びがないままに出したり上げたりしてしまうと、攻撃の役割を負っている受けにひとたまりもなくひねりつぶされてしまうことになる。

また、技をかけるに際して、相手の前にいたり、向き合ってしまうのは危険である。よく目にするのが、四方投げなどで相手の陣地(円の中)に手や体を入れることであるが、これは自殺行為ともいえるだろう。先ずは、相手を投げたり抑えたりする前に、自分の立場の危険性を感じることである。武道では、少しでも危険な位置に身を置かないようにすることが必須である。

「武」とは鉾(ほこ)を止めるということであるというが、武道とは鉾にやられないようにするための稽古、ということにもなるだろう。平和的で平等の合気道の稽古であっても、鉾にやられないような武道的な稽古をしなければならない。いうなれば、武道的感覚で稽古していかなければならないと考える。つまり、武道的感覚を研ぎ澄ましていくことである。

合気道の武道感はさらに深いものであるが、まずは一般的な武道感を身につけなければならないだろう。