【第450回】 合気の稽古のその主となるもの

童謡の「行きはよいよい、帰りはこわい」ではないが、合気道でも初めは「よいよい」でも、後は「こわい」になることがあるので、注意が必要である。

初めの内は稽古すればするほど、上達するものだが、その後にある時期から稽古しても、それまでのように稽古に比例して上手にならないし、場合によっては上達がばったり止まってしまうこともある。

そこでようやく気付くことであるが、稽古はやればやるほどよい、年数をかければかけるほどよい、ということではないのである。

もちろん稽古をそれまで以上に一生懸命にやっていかなければならないことは、いうまでもない。しかし、上達するためには、それまでのようにやみくもに稽古をやっても駄目だということである。上達したいなら、上達するように稽古していかなければならない。

原点に戻って、合気道とは何か、何を目標にして稽古するのか、等をよく考え、自分なりに答えを出さなければならないだろう。さもないと、己の稽古の目標がないままでは、何を目標に稽古するのかも分からず、稽古しても堂々巡りをしたり、無駄なことをして時間と体力を浪費することになるだろう。

それでは、上達もないことになる。なぜならば、上達とは目標に近づくことであるが、明確な目標がなければ、近づきようがないからである。

それでは、合気道の稽古はどのようにすればよいかということになるが、つまりは、開祖が『武産合気』や『合気神髄』などでいわれていることに従ってやらなければならないのであると考える。

いろいろあるが、その一つに「合気の稽古はその主となるものは、気形の稽古と鍛錬法である」というのがある。すなわち、合気道はこの気形の稽古と鍛錬法でなければ稽古にならないということであり、合気の道を精進することはできないということである。

では、合気道の主な稽古となる「気形の稽古と鍛錬法」とは、どんな稽古なのだろう。開祖はそこまではご説明されていないので、自分で考えるしかないのであるが、私の「気形の稽古と鍛錬法」は下記のようになる。

まず、「気形の稽古」とは、一教、四方投げなどの形の稽古であり、誰でもみんな繰り返し稽古しているものである。しかし、この形は重要な意味をもっている。この形は宇宙の営みを形にしたもの(業)で、宇宙の法則・条理に則ったもの(技)である、といわれる。

初心者の内は、この形をただの形として稽古するが、この形は法則に則った技の凝縮したものとならなければならない、と考える。

従って、この宇宙の法則に則った技を錬磨することが気形の稽古であり、そして、宇宙の法則を見つけ、そしてそれを見につけて、技として表わしていくことが気形の稽古である、と考える。宇宙はけっこう大きくて、法則も無限にあるものであるから、気形の稽古にも終わりはないことになる。

次に、鍛錬法である。鍛錬法とは、呼吸力の鍛錬である。呼吸力はあればあるほど技は効きやすくなるから、これも、これでよいということはない。

通常は呼吸法で呼吸力を養成しているが、気形の稽古でも呼吸力の養成ができるようにしていかなければならないだろう。つまり、気形の稽古での鍛錬法である。

しかし、これは容易ではない。気形の稽古で法則に則った動き、体づかいができなければ、力を入れると相手が手を離してしまったり、弾いたりして、相手と結ぶことができないだろう。これでは、遠心力を必要とする呼吸力はつかないのである。つまり、気形の稽古と鍛錬法は相関関係にあるわけである。

気形の稽古で宇宙の法則を身につけ、呼吸力を養成し、さらに、気形の稽古と共に呼吸力が養成されるようにすることが、「合気の稽古はその主となるものは、気形の稽古と鍛錬法である」ということである、と考えて稽古している。