【第444回】 修業に終わりはない

合気道は、気形の稽古と呼吸法で技の錬磨をし、精進していくものだが、これが容易でないことは、だんだんと分かってくるものだ。

入門した頃は、受け身が取れて、基本の形を覚え、そして相手を投げたり倒せれば、合気道ができたと思い、それまでやってきたスポーツ(ハイジャンプ、軟式テニス)とくらべて、こんなにやさしいものはないと考えたものである。

ところが、稽古を続けるに従い、合気道の奥深さが見えるようになり、そして最近では、合気道ほど会得するのが難しいものはないだろうと思うようになってきた。

なぜ難しいかというと、この修業には決して終わりがないことがわかってきたからである。これでよい、ということがないのである。どこに終わりがあるのか、見えないことである。

なぜ合気道の修業に、これでよいという終わりがないことが分かるかというと、宇宙が活動しているからである。宇宙の営みに合致するのが合気道であるから、宇宙が活動している間は、合気道の修業にも終わりがないことになる。たとえ完璧にできて、修業修了と思っていても、次の瞬間には新たな修業を始めなくてはならなくなる。なぜなら、宇宙(時間と空間)が変わってしまうからである。

どんなに一生懸命に修業しても、終わりがないのだから、合気道の修業を続けるのは意味がないのかもしれない。しかし、私はたとえ修了書がもらえなくとも、稽古を続けたい。稽古していけば、必ずすべてを会得し、修了書がもらえるとしたら、恐らく稽古は続けないだろう。修了書がもらえないのを知りながら稽古するところに、修業の面白さがあるということである。

禅での悟りを考えてみると、合気道と同様に、究極の悟りを得る人はまずいないだろう。自分は完全に悟ったのだから修業をやめる、という人がいたとは、これまで聞いたことがない。しかし、大、中、小の悟りは得られるはずであろう。合気道でも大、中、小の悟りは得られるのである。

これらの悟りを得ていくことこそ稽古であり、修業ということであると考える。だから、修業に終わりはないのである。