【第44回】 失敗を恐れない

合気道の稽古は、先生が形を示し、稽古人がその形を通して技を磨いていく。一人の先生が大勢のものに技を教えるのは物理的に不可能なので、基本的には技は各人が練り上げていかなければならないことになる。本来、柔術など稽古事は先生と一対一で稽古をしないと本当の技やコツは分からないものだ。微妙な動きや手足の運用、呼吸や間合い、接触したときの感覚などは直接先生と接していないとそれを汲み取るのが難しいからである。しかし、時代が変わり、社会が変わり、考え方も変ってきたので、当然、稽古法も変ってくることになる。

技は基本的に自分で深く掘り下げていかなければならない。はじめは基本的で大雑把なものであるが、だんだん繊細で深遠なものへと進んでいくことになる。上手下手はこの段階の差に現れることになる。そしてその判断基準となるものは、開祖が言われた宇宙万世一系であろう。これが絶対的な基準となり、これに如何に近いか、まだ遠いかということで、近くなれば上手くなったことになるのではないか。

長年にわたって道場での稽古を見ていると、ほとんどの人は一つの形は一つの技だけで、いつも同じようにやっているようである。指導する先生が代わったり、同じ先生でも同じ形だが違う技を示したりしても、自分のやり方を変えず、技のやり方も変えない人が多い。

技は相手によって効きやすい場合と、そうでない場合がある。大きな人、小柄でガッチリした人、力がない人などいろいろいる。いつも同じように技を使っていては、相手によって上手くいったり、いかなかったりしてしまい、上手くいくかどうかは相手に依存してしまうことになる。技をどんな人にもどんな状況でもかかるのが理想であるので、いろいろなタイプの人と稽古をして、いろいろな技ができるように研究することは大事ではあるが、現実の相手ではないイメージをもってやることも必要である。例えば、力のない人とやっても、力のある人とやっているというイメージをもった稽古をするのである。何故ならば、自分の研究している技の対象の相手といつも出会えるとはかぎらないからである。

稽古は、相手を投げ飛ばすのが目的ではない。技を深く深く掘り下げていくことのほうがもっと重要である。どんな人にも技がかかるように研究しなければならない。そのためには同じやり方、自分の得意な技だけをやっているのでは発展がない。せっかく様々な稽古相手がいるのだから、その相手に効くような技を研究しなければならない。新しいタイプの相手や苦手なタイプの人とやればなかなか技は決まらないだろうが、挑戦しなければならない。

稽古では、失敗してもよい。失敗しないようにすべきではあるが、結果として失敗してもかまわない。その場の稽古は大事であるが、もっと大事なのはその先である。将来いつかできればよいのである。今の失敗を将来の成功のためと思い、恐れず稽古することが大事である。稽古では、すでに出来ることはやる必要はない。出来ないことをやるのが稽古である。来年、10年後を楽しみに、失敗を恐れずに稽古を続けていきたいものである。