【第438回】 真似をする

習い事、稽古事は、当然ながら師の真似から始まるものである。合気道も入門の頃はもちろんのこと、教わっている間は、先生や先輩の真似をし続けることになるだろう。真似しなくなるのは、真似する対象がなくなるときであり、真似する対象である先生や先輩がいなくなってしまった時である。

通常の習い事では、真似する先生は一人であるから、真似しがいのある先生を探さなければならないことになる。昔の人は、3年かけてよい師を探したという。

合気道の場合、それも本部道場の場合は、週により、時間により、先生が変わるので、苦労しなくともいろいろな先生から教わることになる。その中から、真似したい先生を選ぶこともできよう。

しかし、入門当時は、先生がどうのこうのという事を考える余裕もなく、毎時間、指導の先生のやることに少しでも近づけるように稽古するだけだった。おかげで、2,3年もすると、ある先生の時間は、その先生のやり方で稽古し、次の時間には、また全然違ったやり方でその先生の真似をすることができたほどだった。

当時の先生方のやり方、技づかいは、それぞれに違っていた。開祖を筆頭に、植芝吉祥丸、藤平光一、斎藤守弘、有川定輝、多田宏、山口清吾、大澤喜三郎等の師範が、個性豊かに教えて下さったのである。正反対のやり方を教える先生もおられたが、その度にうまく適応してやっていた。先生によっては、自分のやり方と違う稽古人に対して、誰がそんなやり方を教えたんだ等と怒ることもあったのである。

当時はまだ学生で、時間と体力とやる気は十分にあったので、毎日々々、これらすべての先生の時間に出て、各先生に少しでも近づくべく、真似する稽古に励んでいた。

大先生が亡くなられ、自分も仕事に就くようになると、体力とやる気は十分にあったが、稽古のための時間がなくなってきた。毎日、稽古に行くことがかなわなくなり、稽古の時間、つまり稽古の曜日を絞り込むことになる。そうなると自然に、行きやすい日と、自分が真似をしたいと思う先生の時間に絞られることになった。

真似する先生が絞られると、ますますその先生を真似するようになる。その先生のすべてを真似ようとするあまり、一般的には悪いと思われる癖までも真似したものだ。当時も、癖までまねてよいかどうか考えたが、結果としては、それが大事な教えになっていることが分かった。

だが、年月がたつと、真似の限界も見えてくるようになる。つまり、真似できなくなってくるのである。例えば、正面打ち一教の先生の真似をいくらやろうとしても、自分にはできないのである。

開祖もいわれていたが、先生方はいつでも最高のものをやろうとしていたのである。それを真似るわけであるから、容易ではないはずである。そう簡単に真似されるようでは、そのレベルは高くないことになり、真似に値しないことになってしまう。だが、真似が難しいほど、人は真似したくなるものである。

真似に限界があることは、当然である。まず先生と真似する側には、鍛え方の差、体の機能差がある。正面打ち一教が真似できない大きい理由の一つは、例えば、腰が左右半分ずつ陰陽で動かないことにあるようだ。これがうまく機能しないので、前足に重心がかかりながら、腰腹が十字にならないのである。もちろん、まだまだ理由はたくさんある。

腰がうまく機能しなければ、先生の正面打ち一教は真似できないわけだから、できないことを真似することは無意味なのかというと、そうでもないだろう。先生の高度なやり方を真似することができなくとも、真似する努力は必要だと思う。

その理由は、真似することで、イメージが身につくのである。イメージを頼りに、どうすればそうなるのか、どこに真似できない問題があるのか、などを試行錯誤して、がんばることができたのである。

今も真似させてもらっている故有川定輝先生は、口で教えるということをめったにされなかった。それは、今思えば、教えても下地がなければ無駄だと思っておられたからだろう。口で教えることをしないで、気力と息で技を見せ、体の使い方を示して下さったのであろう。要するに、イメージを示して下さっていたのである。

大先生も、技を口で説明されたことはなかったようである。大先生の技の説明は聞いたこともないし、ご説明をお願いできるような雰囲気でもなかったのである。

自分の弟子や後輩に技を教えるのは、難しいことであろう。教えるというのは、真似させるということであるが、まず教える自分が最高のものを示さなければならない。それが相手にわかるかどうかは、わからないことである。あまりにレベルが高くても、あるいは低くても、相手は真似ができないか、真似しようとは思わないであろう。

もし相手が真似したいと思っても、真似できない場合には、真似できるように導いてやらなければならない。人はみんな違うし、時とともに変わっていくから、そのレベルと能力に合わせて教えなければならない。一般的、つまり誰にでも通用するような教えも必要であるが、個別的なソリューションこそが大事なのである。これが、学校教育などとは違う、武道の教えだと考える。

真似をし、真似されるようになりたいものである。