【第434回】 原点にもどる

合気道では形、正確にいうと気形をくりかえし技を身につけていく稽古法をとっている。初心者であっても、古参の稽古人であっても、変わらず同じ形を一緒に繰り返していくのである。

形というのは、例えば、正面打一教、入身投げ、片手取り四方投げ、等のことである。

入門したての初心者は形を覚えるために、指導者の動きを目を皿のようにして見つめ、一生懸命に覚えようと緊張するだろう。だが、10年、20年と稽古していくと、ある程度基本の形は覚えたつもりになって、形を粗末に扱うようになるようだ。

本人は形を粗末に扱っているつもりはなく、粗末に扱ってもよいとも思ってないのだが、気づかないまま結果的にそうなってしまうのである。

形を粗末に扱ってしまう理由は、ある程度、形稽古に慣れてくると、相手を倒すことの楽しさを覚えるからともいえよう。自分のかける技で相手が倒れるのは気持がよいし、逆に倒れないでがんばられてしまうと、腹が立ったり、悔しい思いをするものである。そこで、稽古の目標が相手を倒すことになり、形をおろそかにしてしまうのである。

それでは、なぜ相手を倒すことを目標にしてはいけないのかということになるだろう。

第一番目の理由は、形がしっかりしてなければ、技にならないし、技としてつかえないからである。合気道は技を錬磨して精進していくわけだから、そのためにはしっかりと形を身につけていかなければならない。しっかりした形とは、宇宙の条理に合ったもので、万人が納得できる、無駄のない、奥深いものであるはずであるから、技同様に限りない探究が必要なはずである。

第二番目の理由は、合気道の精神に反するからである。合気道では技をかけて相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れるようにならなければならない。相手が自ら倒れるためには、その形と技を使う過程が大事で、その過程がよければ相手は倒れるし、悪ければ倒れないことになる。

形を地道に探究していくのは、現今では確かに容易ではないだろう。現今とは、ますます忙しく、結果を求め、目に見えることしか信じないし、相手に負けまいとする競争社会、物質科学の世の中である。

しかしながら、合気道の世界は別の世界でなければならない。そうでなければ、稽古をする意味がない。合気道はみんな、無意識でその別世界を求めて稽古しているはずである。いわゆる現実の世界、顕界を道場に持ち込んでいるのでは、無意識が求めている本質的なものを得ることができないし、稽古にも満足できないことになる。

本質を求めるためには、やるべきことを地道にやらなければならない。アニメや童話のように、容易に願いがかなうものではない。

まず、形を原点にもどってやることである。これは、容易なことではないだろう。しかし、まずその決心をすることであり、努力することである。そうすれば、いろいろなものや人が応援してくれるはずである。形をしっかり身につけている先生や指導者や先輩から教わるのもよいし、文献を研究するのもよい。お勧めは、植芝吉祥丸道主著、植芝盛平開祖監修『合気道技法』(光和堂)である。

この『合気道技法』には、基本的な形とその形のための体の使い方、鍛錬の仕方などなどが、詳細に書かれている。これを読めば、形の大事さが改めてわかるだろうし、稽古に専念するようになるはずである。

また、二教や三教は、一教ができる程度にしかできないことがわかるだろうから、一教の重要さがわかるはずである。

さらに、形をうまくつかうためには、手足や体の微妙なつかい方が必要であり、そのためには基本準備運動もしっかりやらなければならないことも、自覚するようになるだろう。例えば、後ろ両手取からの手の使い方は、「両掌を上に向け、手首で腰骨を擦るような形で両腕を内に螺旋状に回しながら、自己の前方方に両手を出す。」とある。

つまり、両脇が体から離れていたり、手を螺旋状に回して使わなければ、うまくいかないということである。ということは、そのようにしなければ、形にならないし、技にもならず、いくら稽古しても上達がないということになるのである。