【第423回】 争わない心

合気道は相対で技をかけ合って技を練磨していく、気形の稽古である。この稽古は、技をかける側と受けを取る側の順番が決まっているので、理論的に争いは起こらないはずであり、また、通常でも争いにならないはずである。

しかし、現実には稽古相手同士での争いが起こっているようである。時には周りが注目するような争いもあるし、周りには気づかれないが、本人達だけの静かな争いもある。

争いは残念ではあるが、技を練磨し上達していく武道であれば仕方ないであろう。逆に、争いもないような稽古では、上達がないように思える。といっても、それはある時期までのことで、ある時期からは争わないようにしていかなければならないのである。

なぜならば、相手とぶつかることで、ぶつかること、つまり争いを知ることになり、そこで、それを避けることを勉強できるからである。技をかける際にも、まず、相手とぶつからなければならない。そして、そのぶつかったところから、ぶつからないようにするのである。

合気道の技の基本は、「ぶつかって、ぶつからない」のである。ぶつからないのも駄目、ぶつかるのも駄目なのである。

争うとはどういうことかというと、相手の心を乱す事、といってもよいだろう。それには、相手の嫌がる事と考えや思いの両方がある。行為だけでなく、思考でも相手の心を乱し、争いを起こすことになるのである。

だが、じゅうぶんにぶつかり稽古をして、良い争いの稽古をしたら、そろそろぶつからない、争わない稽古をするようにしなければならないだろう。だが、この転換は容易ではない。

相対稽古で相手に技をかける際、それまでは相手をなんとか倒そうとして技をかけていたことだろう。従って、自分より力が強かったり、体力があるものには技がからなかったり、かかりにくかったはずである。これは争いの稽古であったのだから、当然である。

相手に技をかける際に、相手を投げよう、倒そうと思ったら、争いになる。相手は必ず、それを心で感じ、そして体で反応してくるのである。この相手を投げたり、抑えようと思うことを邪心といい、開祖は戒めている。

開祖は合気道の極意を、「己の邪気をはらい、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある」といわれているのである。つまり、まずは己の邪気をはらわなければ、合気道の極意は得られないのである。

どうすれば己の邪気が払えて、清い心にできるのかというと、開祖は、宇宙の心と一致することだ、といわれている。宇宙のこころとは、すべてを生かし育てる、生成化育の心、「愛」である、ともいわれている。

相手に技をつかう際には、相手を倒そうとか、どうこうしよう、というのではなく、相手と心と体を一体化し、己の心で相手の心を導き、相手の心を乱さないよう、宇宙の条理に則った動きで、己と相手を共に宇宙と一致させるように、することである。己を宇宙法則に則った技の型に、はめ込んでいくのである。

このような技がつかえれば、受けの相手の心と体は天地の息に一致して動き、自分の事も思ってくれているという「愛」を感じ、共に宇宙楽園建設のための生成化育の手伝いをしていると感じ、自ら喜んで倒れることになるだろう。

しかし、これがわかっても、時として相手を投げてやろうとか、極めてやろうなどと思ったりもするものである。そう思うと、相手は必ずそれに反応するので、あとは力だのみになるから、力が弱ければ相手は倒れない事になる。だから、この邪心が頭をもたげないようにしなければならない。

合気道は、絶対不敗になるように修行していかなければならない。絶対不敗とは、争わないことである。己の心の争う心に、打ち勝つことである、ともいわれている。

相手を投げよう、極めようなどという争う心に負けないように、稽古していかなければならない。