【第412回】 精神の大転換が要(かなめ)

合気道の修行に終わりはない。だが、いつかは修行もできなくなるわけだから、終わりはある。また、自分の限界を感じて、自分から終わりにする終わり方もある。しかし、すべて会得し、頂点に達したから終わりにする、という終わりはないだろう。

だからといって、ただ終わりまで続ければよい、ということでもない。もし稽古期間の長さで上達するなら、誰でも苦労なく上達できることになって、苦労して稽古に励むことはないだろう。だが、実際には上達しようと、みんな一生懸命にがんばっているのである。

上達するためには、時間をかけなければならない。また、上達するように修行しなければならない。要は、上達するように稽古を長く続ける、ということである。

上達するための稽古にはいろいろあるし、人によってもやるべきことやその優先順位は違うだろう。万人に当てはまることではないかもしれないが、やるべきことはある。

まず、最初は体をつくらなければならないだろう。受け身をどんどん取って、技を力いっぱいかけ、足腰が立たなくなったり、ハーハーゼーゼーと息切れするほど動くことである。筋肉、体力がつき、心臓が強くなり、肺も丈夫になる。どんな受けを取っても、息切れがしないようになるまで、鍛錬しなければならない。

体ができてきたら、気力を練ることである。技をかける相手に向かったら、逃げないで、気持ちを相手にぶつけるのである。これが、気の体当たりである。受けを取る場合にも、気持ちを出し続けなければならない。この気力を、強靭になった呼吸で練っていけば、強力な力が出るはずである。

かつて有川先生にお聞きしたことだが、若い時に銀座通りを4丁目から一丁目まで、どんなことがあっても人をよけずに真っすぐ歩くと決めて歩かれたという。それは、このための稽古だったのだろう。

次には、基本技や呼吸法によって、力(体力)、気力、勢いなどで相手を倒す稽古に移っていくことだろう。相手を倒すため、技を極めるために、稽古するのである。相手を倒せば自分の技が効いたと思い、それが稽古の目標となる。

相手を倒すことを目標に稽古するのは、誰でも経験することで、通るべき過程である。だが、これは一過程であり、永遠に留まるところではない。

なぜなら、合気道の技は相手を倒すものではなく、相手が自ら喜んで倒れてくれるものでなければならないからである。さらには、合気道の修行の目標は、宇宙との一体化とか、山彦の道などといわれるものである。

ただし、相手を倒すことを目的としている次元から、次の次元に変わるのは、容易なことではないであろう。多くの稽古人が、そこから抜け出せないでいるように思える。

ここまでは、誰でも一生懸命に稽古すれば必然的に通る過程である。だが、ここからは、その延長上にはない。これまでとどこが違うのかを、一言でいえば、別次元の稽古となるのである。これまでは肉体的、物質的、顕在的、相対的な次元であったが、次の次元は精神的、潜在的、絶対的等などの稽古となると言えよう。

これまでは、他人と自分を比べ、相手が倒れることを見て、上達の有無や遅速を知覚してきたわけである。だが、次は自分との戦いであり、自然・宇宙との一体化などが稽古の目的になってくる。それには、精神の大転換が必要であろう。

この大転換は必要であるのだが、これがまた容易ではない。どうしても、これまでの延長上でやる次元での稽古法から抜け出せず、それまでと同じようにやり続けてしまうのである。よほどのこと、例えば、大決心をするとか、しっかりした指導者に導かれるとか、何かの幸運か奇跡でもなければ、慣れ親しみ、目で見える、楽な道を進むことになってしまう。

私が最も教えを受けたのは、開祖以外では有川定輝先生であったが、有川先生にも大転換期があった。それは、亡くなられる10年前ぐらいのことだったと思う。

それまでは、受けを力一杯投げ飛ばし、技を極め、演武会でも決まって負傷者をだしたり、本部の稽古時間でも受けに怪我を負わせたりされていた。しかも怪我させるのが悪いとも思われてなかったようで、悪びれる様子もなかった。

そんな稽古だったので、有川先生の時間にくる稽古人は10人にも足りないことが度々だった。それも、半数は先生に教わっていた大学のクラブの学生達で、義理もあって来ていたのだろう。そのため、その場に黒帯がいないこともあって、まだ白帯だった私までが1,2度、みんなの前に出て、先生の受けを取らされたこともあったくらいだった。

しかし、晩年の10年ほどは、有川先生の技が全然変わってしまったのである。有川先生に以前習った人が見れば、とても信じられないような変わり方だろう。それまでは、弾き飛ばし、しっかりと極めていたのだが、受けをくっつけてしまい、受けが受けを取りやすいよう、無理が無いよう、怪我をさせないように、自然で、そして理合で、やるようになったのである。技も、真善美を兼ね備え、武道として力強く、隙がなく、無駄な動きのない、芸術とともいえる、すばらしいものとなっていた。

昔の先生を知っていた私は不思議に思って、先生にどうして変わられたのですか、と聞いてみたことがある。先生はその大転換の理由は、病気、大病をされたことだといわれた。おそらく、今までのような稽古を続けていくと、体をこわすだろうから、理合の稽古をしなければならない、と考えられたのだと思う。

先生はご自身だけでなく、稽古人の稽古法まで変えられた。そのため、私まで変わっていくのである。先生の時間には、相手とぶつかり、思い切って極め、勢いよく投げ飛ばして喜んでいたので、先生が変わられた後も同じような稽古をしていた。

すると、ある時、相手を体当たりで投げた後、そばに来られて、「そんなことをしていては駄目だな」とボソッといわれて、行ってしまわれた。先生には「ありがとうございます」といったものの、なぜ、これまではよかったことが駄目になるのか、分からなかった。そして、その後、どのように稽古をしていけばよいのか、分からなくなってしまった。

そのうちに、四十肩、五十肩といわれるように、肩が動かなくなってしまった。手に力を入れると、肩に引っかかって激痛が走り、とても技をかけて相手を倒す訳にはいかなくなったのである。

稽古を休む選択肢もあったが、稽古は続けた。しかしこれで自分の合気の道も終わりかと、自暴自棄にもなっていたようだ。その時、手が上がらず、手が使えないのなら、手などなくても同じことだと思った。そして、手の力を抜ききって、相手のやるに任せ、技をかける時も、肩に力がからないように、力を抜いてやってみた。

これが、私の大転換になったのである。有川先生の助言と五十肩のおかげである。有川先生にいわれたことを考えていたところへ、五十肩で肩が動かなくなったために、次へ進むことができたのである。

五十肩で手や肩、体が力まなくなって、肩が貫け、手先と腰腹が結び、腰腹の力をつかえるようになった。これで、力の質が変わったのである。また、相手と接した瞬間にくっつく引力が出るようになり、相手との一体化、つまり、1+1=1となることができるようになったのであった。

腰腹からの力が手に伝わり、腰腹で手を使えるようになると、呼吸力を養成できるようになった。また、技の練磨の目的は、この呼吸力の養成と、宇宙の法則を身につけ、そしてそれをまた技で表すことである、ということが分かってきた。これが、その次元での修行になったわけである。

人には必ず大転換期があるものだ。それまでとは180度、異質の次元に入るのである。それには、勇気がいるし、忍耐もいることだろう。

次には、さらなる次元への大転換が必要になるだろう。それもなんとか見つけたいものである。