【第386回】 やってきた事を否定しないで、それを土台にさらに変わる

これまでの武道、あるいは今の一般的な武道では、勝ち負けが大事で、いかに敵に勝つことができるかが重要である。敵や相手に負ければそれで終わりで、その強弱でランクが決められてしまう武道である。

合気道は勝負を目的にした武道ではなく、宇宙の条理を身につけ、宇宙と一体化し、そして宇宙生成化育のお手伝いをする真の武道である、といわれている。開祖は「真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てること」と、いわれている。

開祖は、合気道は真の武道でなければならない、といわれるが、昔の武道を否定しているのではない。相撲、剣道、槍術、柔術などを懸命に修行され、誰にも負けない技と頑強な心と体をつくられた。教えを受けた師匠や武道の達人の思想などからも、いろいろなことを学ばれたのである。もし開祖がそれらの武道や武術を学ばれなかったら、今の合気道は存在していなかっただろう。

開祖がいわれるのは、合気道が昔の武道に留まっていてはならない、ということであり、昔の武道からさらに変わっていかなければならない、というのである。

合気道の修行上、注意すべきことは、魄の力の世界である武道はだめで、力を使わない稽古をすればよい、などと錯覚してしまうことである。

開祖は、かつての魄の世界の武道を否定してはいない。各人が分相応に、魄力を身につけていかなければならないのである。ただ、その魄力だけに頼っているだけではだめだ、といわれているのである。

ということは、かつての武道を否定するのではなく、まずは魄力の武道を身につけ、それを土台にして、次の段階に変わっていくことだと考える。

合気道は武道であるのだから、魄力は要る。魄力が必要ない武道などはあり得ない。合気道の思想だけで満足し、頭でっかちになっている合気道では、武道ではなく、合気道教とか合気道学になってしまう。合気道は、祭政一致の武道でなければならない。

魄の武道を否定するのではなく、武道を土台にして、さらに変わっていかなければならない。だが、合気道を修行していく上で、同様の問題も多々あるようである。例えば、体力、筋力、腕力などの魄力、お金や物の経済、ぶつかり、吐息など等である。

合気道は魂の学びであるからと、魄力を否定してはいけない。魄力をつけ、そしてつけながら、魂を学んでいかなければならい。魄力がなければ、魂もその程度にしか身につかないはずであろう。

また、合気道は魂の学びであるから、お金や物の経済を否定・軽視するのは誤りである。開祖も「世の中はすべて根本は経済であります。経済が安定してはじめて、そこに道が拓ける」といわれている。経済が破たんしたり、不安定になれば、稽古を続けることもできなくなってしまうのである。

さらに、合気道は争わない武道であるからと、体や気持ちがぶつかりあうのを否定するのも、誤りである。技をかける際には、まず、気の体当たりと体の体当たりがなければならない。つまり、まずはぶつからなければならないのである。しかし、そのぶつかりがぶつからないようにならなければならないだけである。ぶつかってぶつからない、のである。

最後に、吐息である。技をつかう時や、柔軟運動で体を折る時などは、息を吐くものである。しかし、息を吐くと体が固くなるし、息もなくなってしまう。むやみに息を初めに吐くのは駄目で、否定したいところだが、正しい息つかいでやる場合には、この初めの吐息が生きてくるのである。

例えば、開脚柔軟運動で、一般的には息を吐いて体を落とすが、吐くことによって体も股関節も固まってしまい、下までは落ちないものである。ところが、息を吸う(息を入れる)ときは体が柔らかくなるので、息を吸いながら体を落とすと、吐いたときより下に落ちるのだ。

しかし、息を吸いながら落とした方がよいからといって、息を初めに吐くことを否定する必要はないのである。息を吸いながら落とすのがある程度できるようになったら、今度は生産びの息づかいでやるのがよい。生産びであるから、息は吐き、吸い、吐くであるのである。

まずは、ゆっくり吐きながらやる。これは、最初にやっていた息づかいである。この息づかいを土台にし、そこから、吸いながら同じ動作を続け、さらに、続けながら最後の息を吐き切るのである。つまり、最初の吐く息づかいだけではだめだが、それが土台となって、変わることになるのである。