【第381回】 八力の稽古

合気道は相対で形稽古を通して、技と体と心を磨いていく。しかし、練磨する技にも、体にも、心にも、これでよいという完成はない。だから、延々と稽古を続けることになる。だが、試合がないこともあって、だんだん稽古に具体的な目標をもつことが難しくなるようである。

自分の場合、稽古を始めたときには、まず跳び受け身ができて、小手返しや四方投げなどの受け身が取れることを夢見て、受けの稽古をした。次には、先輩に投げられてもついていくことができるよう、そして、先輩に負けないようにがんばることなどが、目標だったようだ。

先輩など上があるうちは、その上を目指し、負けないようにがんばることができる。だが、だんだん上がいなくなってくると、今度は自分で目標を定めなくてはならなくなる。

長年稽古を続けていると、上の先輩達が少なくなると同時に、下の後輩達が増えてくる。少しでも気を許すと、自分と後輩を比較して満足することになりかねない。初心者や後輩と比較して満足しても、仕方がない。

そこで、他人を対象にした相対的な稽古から、自分を対象にする絶対的な稽古に変わらなければならないだろう。絶対的な稽古に変わらなければ、稽古は先に進めないものだ。

稽古を始めた若い頃は、力いっぱい稽古をするものだろう。持てる力を出し切り、相手にぶつかっていく。自分の事を思い返すと、相手のことなど構わず、というよりも、相手の息を上がらせてしまうことが目標だったようだ。1時間の稽古で3人の息を上がらせ、「休ませてくれ」と言わせたなどを自慢していたものだ。今考えると、ご迷惑をおかけしたと反省するが、当時の若い稽古仲間はみんな、このような考えで稽古していたのではないかと思う。

しかしながら、この頃の力はまだ末端の腕力であり、がむしゃらで勢いはあるが、浅く弱く、弾いてしまう力であり、いわゆる単純な力であったといえよう。

単純な力というのは、対照の力が働いていないということである。若い時に鍛えたような、例えば、強、速、剛等の力は、それだけの一面的な力ということになる。

これに、対照力である弱、遅、柔・流の力が加わって、はじめて対照力が働くようになる。そうすれば、若いころの一面的で単純な力とは異質な力が出ることになる。

対照力で技が使えるようになると、八力が働くようになり、引力で相手を結び、一体化できるようになる。これを、八力の稽古ということにする。この八力で相手と一体化してしまえば、速いも遅いも、強いも弱いもなくなり、自由自在になる。これを、勝速日というのだろう。

ゆっくりと、力を入れないように動いていても、心は超高速、超強力であり、いつでも切り替えることができる状況にあるのである。心は最高の高速、強力の限界にあっても、体の動きは相手に合わせ、相手が動けるよう、相手の鍛錬になるように、動けるのである。

八力には、前に挙げたもののほかに、厳しさと優しさ、鋭と鈍、緊と緩、絞と緩、大と小、陽と陰、攻と守、殺と活、絞と緩などなどがある。それも、体と心の次元である。

また、両極にある対照のバランスが取れれば、無力のゼロとなるはずである。対照力は線のベクトルであるが、多くの無限であろう対照力が集まれば、円から球になるだろう。だから、各対照力のすべてのバランスが取れれば、エネルギー(力)があるけれども、無ということになるだろう。宇宙は対照力がゼロとなっているわけだが、膨大なエネルギー(力)がある、というのはそのためではないだろうか。

対照力の八力の稽古は、相手のためにもなる稽古である。合気道が求める、愛の稽古ということになる。初心者の頃の稽古は、一面的であり、自己本位、自分中心の稽古、といえるだろう。

後は、対照力を強める稽古をしていけばよい。それには、対照力の両端の限界を広げることである。速く動きたいと思うならば、速く動く稽古をすると共に、よりゆっくり動く稽古もしなければならない。

もちろん、若い時に得た力も、対照力と共に、さらに練磨していかなければならないものである。

八力の稽古でも、やることはいくらでもある。まだまだ、できあがってなどはいられないであろう。