【第374回】 中心をつく

「天の浮橋に立たねば武は生まれません」と開祖は言われている。合気道の技の練磨で技をきかせたければ、天の浮橋に立たなければならない。

天の浮橋に立つとは、上下左右前後に魂魄(気持ち・心と力)の隔たりがなく、あたかも宙に浮いているような状態をいうのだと思う。この状態で相手と一体化するので武が生まれるわけである。

天の浮橋に立ち、相対の稽古相手と一体化するのを「結ぶ」というが、相手と「結ぶ」のも容易ではない。技は相手と結び、相手と一体となって動かなければ、その技は効いたことにならない。まずは、相手と結ばなければならないのである。結ばないで技をかけようとすると、腕力に頼らなければならないことになる。

結ぶためには、相手の中心をつかなければならない。中心とは、相手の正中線であり、体の中心の腰腹である。

片手取りで相手と結ぶ場合は、自分と相手の手を通して、自分の腰腹と相手の腰腹を結ぶ。正面打ちの場合には、相手の真ん中の正中線を正確に切ることによって、結べるのである。この正中線が1センチずれても、持たせた手が相手の中心から少しでもずれていれば、結ばれず、技はかからないものだ。肩や胸を取らせる時も同様である。

持たれた手、打つ手、取らせた胸や肩などで、相手の体の中心を突くことは重要であり、相手と結び、技を効かせるための必要条件といえよう。しかしながら、中心を突かなければならないのは、肉体だけではないのである。

それは、心、気持ちである。昔は開祖や師範、先輩などの前に立つと、これは駄目だと思った気おくれしたものだ。これは、今考えると、こちらの中心が先生方の心、気持ちで突かれ、結ばれて吸収されてしまった、ということだろう。

つまり、体(肉体)で相手の中心を突くことができるようになったら、次は心で相手の中心(体と心)を突くように稽古すべきだ、ということになる。

だが、中心をつく稽古はまだある。合気道は技の形(正面打入身投げ、片手取り四方投げ等など)を何度も何度も繰り返しながら稽古し、技を身につけていくものである。稽古する技の形、とりわけ基本技(の形)には、それぞれ大事な教え(学ぶべきこと)がある。それが、その技の中心ということになるだろう。

中心をつきながら稽古しなければ、稽古の意味が半減してしまうことになる。例えば、一教は腕抑えともいわれるように、腕をしっかり抑えることが中心になるはずである。相手と結んだところから、抑えて、離れるまで、しっかり相手の腕を抑えるべきである。また、受け身でも自分の腕をしっかり抑えさせて、自分を鍛えるのがよいだろう。

中心をついてない稽古をしていると、弊害もおきる。典型的なものに、呼吸法がある。呼吸法の稽古の目的である中心を見落としていると、技の稽古と混同してしまう。呼吸法の中心は、呼吸力の養成であるので、呼吸力を少しでも養成できるようにしていくべきである。これを技と勘違いして、相手を倒して満足していると、中心をついた稽古をしてないことになる。

合気道の稽古で、中心をつく稽古をしていけば、物事の中心をつくようになるだろう。また、そうならなければならない。見えるモノだけでなく、人の話や書いたものなどの見えないモノにも、中心があるはずである。物事でも中心をつかずに、中心のまわりの末端で判断を下したりすれば、よい結果はでない。最近、いろいろな社会的な問題が起こっているが、この辺に問題があるように思える。

合気道で一番重要な中心は、宇宙を創造し宇宙完成のために生成化育されている一元の大御神である。これが、合気道の最終目標といわれている。この一元の大御神と結ぶために、合気道の稽古では中心をつく稽古、そして道場の外でも物事の中心を突く、すなわち結ぶ修練をしていかなければならないだろう。