【第366回】 勇気をもつ

人間社会で生きていくためにも、時として勇気がいる時がある。合気の道を歩んでいくためにも、非常な勇気が必要なことがある。

中には、いつも勇気凛凛として何事にも当たる人もいる。それを勇者というのであろう。しかし、通常の人は勇者などではなく、いつでもどこでも勇気をもって事にあたっているわけではない。ただ必要なときには、勇気をもって事にあたっていることだろう。私など怠け者だから、なるべく勇気などは出さないで生きたいと希望している。

しかしながら、半世紀にわたる自分の合気道の稽古を振り返ってみると、勇気に関してはふだんと違って、勇気をもって稽古した節目があったことが思い出される。また、上達するためには、勇気が必要であるということも、わかってくるのである。

勇気にも、大小など量的なものと、次元が変わるような質的なものがあるのではないだろうか。

稽古を始めたころに必要とした勇気は、小さなものだったと思われる。だが、後になればなるほど、量的に大きくなってくるものであり、そして、質的にも大変換を必要とする勇気になってくるようだ。

初めの勇気とは、はじめてやる稽古の時であるだろうし、また、先輩や同輩など、あまりよく知らない相手との稽古であろう。二教や三教の固め技、腰投げなどの受けを取る時も、勇気が必要であるし、このような技が上手な先輩と初めてお手合わせをしてもらう時にも、勇気がいるだろう。

このような時は、誰でもどきどきするもので、小さな勇気が必要である。だが、誰でも勇気をもって、切り抜けてきているのである。

その次の勇気であるが、ある時、肩が痛くなって、動かなくなった。いわゆる四十肩である。稽古はなんとかやれるが、女性に技をかけられても痛いほどで、これで自分の合気道も終わりかなと思った。もちろんストレッチをしたり、お湯で温めたり、いろいろやってみたが、痛みは取れず、夜も痛みで目を覚ますほどであった。

それでも、稽古は以前と同様に続けていた。痛くないように、また、それを相手に悟られないようにしながら、稽古を続けた。

そんなある日の稽古で、女性とやったときだった。どうせ力が入らないのだから、今までのように力まず、力を抜いて、相手に自分の腕を預けてみたらどうかと思った。もしかすると、肩が抜けるかもしれず、筋が切れてしまうかもしれないとも考えたが、このまま稽古もできなくなるくらいなら、肩が壊れても同じことだろうと、試してみた。一教や四方投げで脱力し、相手に腕を預けたのだが、肩に力が引っかからず、かえって肩の痛みは薄らいでいき、気持ちがよかったのである。

後日も相手を選んで、この稽古法を続けてみると、不思議と肩の痛みが消えていった。そして、四十肩の痛みがなくなっただけではなく、結果的に肩が貫け、手と腰がつながり、また、腰の力が手先につながってきたのである。

このような体験は、合気道を続けられるか不具になるかが決まるような、重要なものだったので、中ぐらいの勇気だったといえよう。これは、いわば十人の内、半分の五人くらいがもてる勇気だろう。

次の勇気は、大変なものとなる。重大なことに対処するための勇気であり、それまで自分がやってきたことを否定することにもなりかねないからだ。

長年稽古を続けていると、誰でも壁にぶつかるものだ。よい先生や先輩がいれば、壁にぶつからないように導いてくれるだろう。だが、そういう方々がまわりからいなくなれば、すべて自分で解決しなければなくなる。

私の場合は、ありがたいことに有川師範に救って頂いた。それはある日、有川先生の稽古時間で諸手取り呼吸法の稽古をしていた時のことだ。私がそれまでのように体当たりで、相手を弾き飛ばしていると、先生がそばに来られて、「そんな稽古をしていると、呼吸力がつかないぞ」と言われ、すっと去って行かれたのである。

その時は、なぜいけないのかわからなかった。だが、その晩よく考えて、稽古法を変えてみることにした。それからは、有川師範が示される技に少しでも近づくために、師範の動き、体づかいを真似しようと努めた。そのために、力は相当ダウンしてしまった。今まで弾き飛ばしていた相手に頑張られたり、技の効きめも低下してしまった。

当時は気がつかなかったが、その時に壁にぶつかっていたところを、師範が見ていて、導いて下さった。お陰で、大きな壁にぶつからないですんだのである。

壁にぶつかるということは、先に進もうとしても、進めなくなることである。それまでも薄い壁にはぶつかってはいたが、がんばればその壁を突き破ることができた。そのために、いつもがんばってきたのだが、ある壁にぶつかると、以前と同じようにはいかなくなったのである。

壁にぶつかっている人を外側から見ていると、その理由もよく見えるようだ。だが、本人には分らないものである。その問題を指摘したり、問題解決のアドバイスをしても、聞く耳を持たないことが多い。残念であるが、本人のことなので、本人が決めることである。

もちろん、長年稽古してきたので、自分のやり方、稽古法があるので、他人が言ったからといっても、おいそれとは変えられないだろう。しかし、その結果は、壁にぶつかったまま二進も三進もいかなくなり、やがて引退となっていくのである。

壁にぶつかって二進も三進もいかなくなったら、戻ることである。原点に戻ることである。稽古とは何か。上達するとはどういうことなのか。何を目標にして稽古しているのか。合気道とは何か等など、もう一度考えてみることである。

そのためには、大きい勇気がいる。自分のこれまでの稽古を、否定することにもなりかねないものであるからである。しかし、この勇気をもたなければ、先には進めない。本当の勇気をもたなければならない。