【第349回】 技をかける目的は相手を倒すことではない

合気道の稽古は相対で、捕り受け交互に技を練り合っていく。相手が受けを取って倒れたり、転がればうれしいものであるが、お互いに稽古を続け、力の差がそれほどなければ、受けがちょっと頑張ったり、技をかけるのをちょっと間違えれば、相手は倒れないはずである。それでも相手を倒そう転がそうとすると、大小の争いになってしまう。

誰でも争わないように稽古しようとしているのだろうが、争っては反省し、少したつとまた争ってしまう、の繰り返しを長い間続けているのではないだろうか。

人間には、相手に負けまい、勝ちたいとする本能がある。本能は大事である。この本能のおかげで、人類は過酷な世界を数百万年を生き抜き、また、その人類社会を勝者が生き抜き、今日に至っているということになるからである。生存競争に負けた者はこの世から消えるわけだから、競争に勝つ本能は、まだ競争社会にあるわれわれに強力に働きかけているはずである。

合気道は、勝ち負けを決めるものではない。しかし、人にはまだどうしても負けまい、勝とうという本能が働くだろう。それに、合気道は武道であるから、不敗でなければならない。このジレンマをどうするかを考え、解決しなければ、先へは進めないはずである。

まずは、合気道の稽古で技をかける目的は、倒すことではないということを知らなければならない。これが、柔道などの武道との違いである。柔道の場合は、いかに相手に嫌だと頑張られても、なんとしても投げなければ勝てない。投げて勝つことが、技をかける目的であるはずだ。

合気道も武道であるから、技をかけたら、その結果、相手は倒れていなければならない。相手が倒れていなければ、技がかからなかったことになる。

しかし、ここで大事なことは、先述のように、合気道で技をかける目的は、相手を倒すことではないことである。合気道の技は、相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れるようにしなければならないのである。

自ら倒れるというのは、体験しないと分かりにくいかも知れないが、頑張って倒れなければ危ないと感じて、とっさに倒れたり、倒れた方が自然で気持ちがよいから、がんばろうと思わずに倒れる等ということである。開祖の演武の映像でもわかると思うが、開祖がかけられた技は、いくら頑張っても倒れるしかないだろうから、自ら倒れた方が賢明であるはずである。

相手が自ら倒れる技を使うためには、その技をかけるプロセスが重要である。つまり、技をかける目的のひとつは、正しいプロセスを踏む稽古である。正しいプロセスを踏めば、その結果として、相手は自ら倒れてくれることになるのである。もちろん、このプロセスは、相手を力で倒してしまうよりも複雑、微妙で、なかなか難しいものがある。宇宙の法則に則った、体遣い(十字、陰陽等など)、息遣いをしなければならないからである。

相手を倒そうという目的をもって技をかけると、うまくいかなくなる。倒すことを目的にしていては駄目である。相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れることが大事なのであり、倒れることは結果なのである。

そして、その結果はプロセスから出てくるから、この原因(技をかける)と目的と過程と結果の関係とは、
「原因 ⇒ 目的」ではなく、
「原因 ⇒ 過程 ⇒ 結果」ということになるといえよう。