【第286回】 自灯明 法灯明

合気道の修行には終わりがない。終わりが来る前にこちらの方に終わりが来てしまう。合気道だけではなく武道はみなそのような宿命をもっているだろう。武道だけではなく、芸能や絵画や書や音楽などなどの芸道にあってもこれで終わりということはないはずだ。

我々から見れば、完成されたと思われる合気道開祖の植芝盛平翁も、最後まで、まだまだ修行じゃといわれて修行を続けられ、すべて分かったとか出来たとか完成したなどとは決して言われなかった。真の名人・達人なら、完成したとか完璧に出来たなど決して言わないのだろう。

誰もが自分の合気道の完成を目指し、修行をしている。はじめの内は順調に上達していくが、ある時点から、それまでのように、稽古をすればそれだけ上達するということがなくなってくるし、いつか上達がぴたっと止まるようだ。腹立たしくなるだろうし、また、その先どうすればいいのか分からなくなり、不安になるものだ。

しかし、この時点が大事なのである。ひとつは、この時点を迎えた事は、稽古を一生懸命にやってきたことの成果であり、合気之道を正しく進んできた証しを得たことになるからである。二つ目の大事な理由は、ここからそれまでの稽古のやり方、考え方と異質のものに変えなければならないからである。つまり、それまでの延長上での稽古をしても駄目だということである。

この分岐点までは、先生や先輩の指導に従って稽古をしなければならない。いうならば、自分の個を殺して稽古をしなければならないはずである。指導者の言うことを無視して、自由気儘にやれば、この分岐点まで来ることもできないだろう。この時期は、個を殺して指導者に従わなければならないのである。

問題は、ここからそれまでの稽古のやり方、考え方を異質のものに変えなければならない、ということである。それなら、どう変えなければならないというのだろうか。体のつかい方、息のつかい方、技のつかい方等などいろいろあるが、ひとつ、それまでと根本的に変える必要があるものがある。

分岐点までは他人に教わり、導かれて上達きたはずであるが、分岐点後は自分で自分を導いていかなければならないのである。

これを開祖は、「すべて道はあるところまで先達に導かれますが、それから後は自分で開いてゆくものなのです。キリスト教をはじめ、世界の五大宗教、三大宗教(注:キリスト教、イスラム教、仏教)はいずれもみな、この愛を目標にのぼってゆく修行道工夫、方法をいろいろ示したものにほかなりません。」(合気神髄)と言われている。

この世界三大宗教、五大宗教のひとつである仏教の開祖である仏陀も、死が間近になった時、それまで自分が導いていた弟子に対し、自分がいなくなったら弟子自身で道を切り開いていかなければならないと、最後の教え、仏陀の遺言として、次のように言い残している。

自ら灯明とし
自らをたよりとし
他をたよりとせず
法を灯明とし
法をたよりとして
他のものをたよりとせず
生きよ

(「大パリエッパーナ経」)

他(他人)をたよりにしないで、自らをたよりにして生きよ。しかし、法をたよりにせよ、と言っている。自己の救済者は自分自身ということであるが、法に従わなければならないというのである。もちろん、法とは、合気道でいう宇宙の法則のはずである。つまり、宇宙の法則に照らせ合わせながら修行をし、生きていけということであろう。他(人)をたよりにする必要はないし、たよりにしているようでは先に進めない。