【第281回】 相手はいるが、相手はいない

ホンマモノは、陰陽、裏表、強弱などなど相反するものが背中合わせにくっついて一体化しているもののようだ。つまり、その相矛盾するモノが一緒になることによって、安定性、力、美、さらに信頼性、説得力等が出てくるのだろう。

合気道にも、禅の公案のように矛盾と思える教えが多々あるが、「相手はいるが、相手はいない」もそのひとつであろう。

合気道の稽古には、合気道の技を掛け合い、受けを取り合って、技の練磨に励むから、通常、相手がいる。相手がいない技の稽古もあるだろうが、一人で投げたり受けを取るのでは、パントマイムのようなことになり、合気道とは違うものになってしまうだろう。

合気道の相対稽古で、「相手はいる」は当然であり、何の問題もないだろう。問題は、相手はいるが「相手はいない」ということである。

術をかけて相手を消し去ってしまえ、ということでもなし、相手はいないものだとイメージしなさい、ということでも無理があるだろうから、正解ではないだろう。

まず、なにはともあれ、「相手はいない」ということが、どういう意味なのかを考えなければならない。

「相手はいない」の反対は、「相手がいる」である。相手がいるということは、まず、稽古の相手が自分に対峙している。これが、「相手はいる」である。そして、「相手がいる」は、その相手が押したり引いたりと、心と肉体でこちらと争おうとしているから、注意せよということになるだろう。

「相手はいるが、相手はいない」ということは、その争いのもとになる相手を合気道的に消し去るということである。しかし、現実には、相手はこちらに対して切ったり張ったり掴んだりしているわけだから、現実に「いる」のである。この「いる」を「いない」にするのである。

それは、相手と自分が結んで一人になることである。一人になれば、相手はもはや、相手という争う対象ではなく、自分の分身ということになる。これで、自分だけになったわけだから、「相手はいない」ことになるわけである。

これで、学校の試験や公案なら合格だろうが、合気道では不完全である。合気道では、理論や解答を技で示せなければならない。技で示せてはじめて100点となる。
しかし、「相手をいない」状態にするために、相手とむすび、技を掛けていかなければならないのであるから、容易なことではない。

相手と結ぶのは、まず、前にいる相手と「気結び」で結んで、気持で一体化することである。次に、相手が打ったり掴んだりして、こちらの身体に接したら、「生むすび」で相手をくっつけてしまうのである。この際注意することは、息づかいである。息を吐くと相手を弾いてしまうので、息を吸う(開祖は引くといわれている)ことを注意してやるといい。また、力んでも表層筋が相手を弾いてしまうので、力まず深層筋でやるようにするといい。

このようなことに注意していけば、「相手はいるが、相手はいない」状態になり、相手はこちらの掛ける技のなすがままになってくれるようになるはずである。また、そうなるように稽古をしていかなければならない。

「相手はいるが、相手はいない」は、まさしく合気道の妙味である。

参考文献 「合気神髄」 植芝吉祥丸著