【第266回】 お辞儀も満足にできないと技もできない

日常生活では、人は外見や仕草や動作で無意識のうちに判断されているものだ。武道でも、その人物やその人の腕前や伎倆は外見や仕草や動作で見られている。例えば、歩き方、掃除での箒(ほうき)や雑巾の遣い方、挨拶の仕方、お辞儀の仕方などである。実際、そのような判断に、腕前もほぼ一致していると言ってもよいだろう。

歩き方は武道の基本であるはずで、歩き方がまずければ駄目である。一人でまともに歩けないようなら、相対稽古で相手と二人で満足に足運びができるわけがないし、技も効かせられない。

箒や雑巾も腹と結んで使えなければ、技を使っても手と腹が結ばないはずだから技にならない。これらのことは、目に見えるので、ちょっと注意していれば容易に理解できるだろう。

そもそも、「挨拶のお辞儀が満足にできなければ技もできない」といえるだろう。実は、私も少し前まではこれを観念的なものだと考えていたが、恐らく大抵の人もそう思っていることだろう。つまり、「挨拶のお辞儀が満足にできなければ技もできない」というのは精神的な意味であり、謙虚な気持ちを持たなければ技もできないという教えだとの解釈である。

しかし、稽古を深めていくと、お辞儀が正しく、美しくないと、技が掛からないということが分かってくる。単に精神的な戒めというだけではないということである。

このことが分かる一番典型的な技は、「半身半立ち片手取り四方投げ」である。相手と結ぶために持たせている手を、まず下に落とさなければならないが、この落とし方は、日本のお辞儀の形に入れ込む必要がある。アッラーの神へのお辞儀の仕方ではない。だから、日本のお辞儀が正しく、美しくできないと、相手と結ぶことはできないはずである。そうでないと、立っている相手に引っ張られてひっくり返されたり、手を離されてしまったりすることになり、技ができないことになる。

正しいお辞儀とは、相手と気持よく結ぶことのできるお辞儀である。そのポイントは、まず、持たせている手先から動かさないで、その対極の腰から動かすこと。次に、息遣いである。息遣いはお辞儀のときと全く同じである。頭を下げる時と上げるときは息を吸い、下で止まっている時は息を吐くのである。

三つ目は、いわゆる「愛」である。相手をやっつけようなどと思うと、相手に持たせている手は離れてしまう。相手と一体化するためには、相手を自分の分身として大事に、「愛」を持って扱わなければならない。だから、お辞儀も愛をもってしなければならないことになる。