【第263回】 見えないものも信じる

時代とともに、人は人や物事をますます疑うようになってきているように思う。子供の頃は自分も含めて誰でも素直で、疑うことなど知らなかったはずだが、だんだんと疑い深くなってくるようなのが残念である。

科学万能とも言われる現代では、仕方がないのかも知れない。科学は、見方によっては、疑うことが根底にある学問といえるだろう。疑いに疑いを重ね、疑いのすべてがなくなってはじめて、それが科学として認められるのである。科学とは、誰でもいつでも同じ条件で同じようにやって、同じ結果がでなければ、科学として認められず、信じられないのである。

また、人は自分が見えるものしか信用しなくなってきた。見えないものがあるとされても、疑う。自分の目に見え、見える通りにしか信用しない。人に見えても、自分に見えなければ信じない。かつては、いろいろな神様や仏様、精霊や妖怪など、目に見えないものもいるだろう、と信じていたはずだが、今では違ってきた。

合気道を修行している我々合気道家と合気道創始者である開祖とを比べるのはまことに不謹慎だが、開祖との最大の違いの一つは、開祖は我々の見えないものが見えたことだと思う。開祖は多くの神との交流があり、導きを受けられたという。しかし、我々にはそれが見えない。そして我々は、開祖がご覧になっていたもので、我々には見えないものを信じないし、開祖がご覧になったということさえ、疑っているのではないだろうか。

神が居られるのかどうか、科学的な証明などできないが、合気道の創始者であり、我々合気道同人の先達である方の言われた事を信じず疑うのは、不謹慎であるだけでなく、開祖が求めていた合気道の道を進めないことにもなるだろう。今は、見える見えないは言えないし、できるかどうかも分からないが、少なくとも挑戦はすべきだろう。結論を出すのはそれからでいい。

開祖もはじめから、あのような超能力をお持ちであったはずがなく、修行を積まれてある時から、神が見えたり、常人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるような超能力が備わったのであろう。我々常人が今、見えないからそれは無いとか、聞こえないから存在しないなどとしているのは、修行が足りずにレベルが低いせいかも知れない。

その証拠に、修行を続けていくに従って、天の浮橋、天の呼吸、地の呼吸など、それまでに感じなかったことを感じるようになるし、眩しくて見ることが出来なかったお日様を観ることが出来るようになるし、またその観の目で能面や仏像を観ると、それまで見えなかったものが見えてきた。

もっと修行を続けていけば、見えないものがもっと見えるようになり、その内に、神様とのご対面もあるかも知れないと思っている。思う事は自由である。修行の結果、見えなくとも、それは仕方がない。だが、挑戦しなければ、後できっと後悔することは間違いない。見えないものも信じて、稽古をしていくだけだろう。