【第254回】 争わない

合気道は、相対稽古で技を掛け合い、練磨しながら精進していくが、技はうまくいくときもあるが、思うようにいかないものである。思うように技が掛かる、技が効くというのは、受けの相手と結び、相手と一体化し、自分の思う通りに相手を自分の分身のごとく動かしてしまうということだろう。

受けと結ばなければ、自分と受けの相手が二つの別物になるので、そこに段差や隙間ができ争いにもなるのである。

合気道は争ってはいけないと、教わっている。初心者の頃は、「争い」をしないということは、受けを頑張らないで取るということだと思っていた。相手の受けを素直に取り、相手と争わないから、これが争わない合気道だと思ったのである。

しかし、合気道で争わないということは、これだけではなかった。争いは稽古相手に対してだけの戒めではなく、もっと根本的なものと争うなという教えであるようだ。その根本的なものとの争いによって、その結果、稽古相手とも争うようになっているようだからである。

合気道は宇宙の法則、自然の法則とか条理に則っているので、技も自然の法則に逆らわずに遣われなければならない。もし、自然に逆らった技遣いや体遣いをすれば、受けの相手はそれを敏感に感じるので、その掛けられた技を拒否することになり、その結果、争いになると考える。

争いになる最大の原因と思われるものは、「上げてはならない側の手を上げようとする」ことのようだ。誰でも経験する典型的な技に二教裏があるだろう。取り(仕手)が二教裏を掛けているのを、受けが頑張り、効く効かないで争っているものである。

これは通常、受けが意地悪して頑張っているのではなく、技を掛けている取りが「上げてはならない側の手を上げようとする」ので、この法則違反に対しての無意識の反抗といっていいだろう。

もう少し具体的に説明すると、例えば、右半身で相手の左手首を二教裏で決めようとする場合、取り(仕手)の両手と肩と足は前に出ている。相手の左手首を両手で右肩につけて、絞りながら下に落とすが、落とすためには、一度上げなければ落とせない。だから、一度上げようとするのだが、前にある右足は着地しているのだから、本来はこの右側に位置する手と肩は上がらないし、上げてはいけないのである。

この右側にある手を上げるには、一度、重心を後ろに位置している左足に移さなければならない。左足に重心が移動すると、右肩にある手が自然に上がるものだ。上げた後で、右足にまた重心を移動して下ろせばよいのである。

上げてもよい手とは、着地している足の反対側にある手である。これを、着地している足側の手を上げて遣うと、ぶつかってしまい、技はうまくいかないで争いを招くのである。

上げてはいけない方の手を上げるから、自然に反するのを感じ取って、その意志表示として相手は阻止してくるのである。それを素直に取り入れて足遣いを変えればいいが、その有難い忠告を無視したり、逆らうから、受けの相手も無意識のうちに「何を小癪な」ということで争いになると考える。

「上げてはならない側の手を上げようとする」のではなくて、「上げてもよい側の手を上げる」ようにしなければならないわけである。これは二教だけでなく、すべての技に共通する法則であるはずだ。

これは技だけではない。剣を振るのも同じである。着地している足の側の剣を振り上げるのではなく、振り上げる剣側と反対側の足(通常は左)に重心を移動させながら上げた方が、肩が抜けて剣を大きく、スムースに遣える。

肘や肩などの関節のストレッチをする場合も、この法則に則ってやらなければ効果は薄いし、かえって体に害になるかもしれない。自然の理、宇宙の法則や条理に従えば、争いにはならないはずである。