【第253回】 自分との戦い

合気道は相対稽古で技の練磨をして上達を目指すが、相手と勝ち負けの勝負をするものではない。そうは言われても、相手に技がうまく効いて倒すことができると気持ちがいいし、相手に技が効かなければしゃくにさわるだろう。特に、初心者のうちはそうだろう。

初心者のうちは、どうしても相手に影響されてしまう。受けがうまく取れるのも、相手がうまく投げてくれればうまく取れるし、相手が初心者とか下手な同輩なら、受身もうまくとれなかったり、取りづらいものだ。また、取りとして技を掛けるにも、受身を素直に取ってくれたり、ひ弱な相手には技が効くが、体力のある相手には思うように効かないことになるので、そういう相手を敬遠するようになる。

相手に依存している稽古をしていると、そのうちに限界の壁にぶち当たる。がその壁を破れなければ次の段階に進めない。

次の段階に行くためには、稽古で戦う対象が相手であったのを自分に切り替えなければならない。それまでの稽古のやり方では難しく、稽古の質を180度転換しなければならない。

しかしながら、戦う対象を他人から自分に切り替えるのは容易ではない。
いかに相手に捉われずやるか、よほど意識して、強い意志でやらなれればできないものである。新しい挑戦をするわけだから、一時は弱くなるものだ。それに我慢できずに、再度、稽古の目的を、相手を力ずくで投げたり抑えようなどとしてしまえば、元の黙阿弥になってしまう。

自分と戦うとは、自分を見る、反省・修正・追加・補足し、少しでも自分の技を良くしていくことであろう。
技の練磨であるから、技が正しく使われていればいいわけだが、それが正しいのか、どこが間違っているのか、どのように直せばいいのかは、はじめは分からないはずである。そこで、まずは見えるものを通してそれを見ていくわけだが、見えるものには、相手の動きを別にすれば、自分の技の軌跡、体の動き、姿勢などがある。しかし、技の軌跡、体の動きが正しいのかどうか、どう修正・補足していけばいいのか、はじめは難しいはずである。
物事には順序があるから、やさしいことから始めればいい。

合気道は、技の練磨を通してやっていくが、相対稽古なのでどうしても相手を意識しすぎてしまう。しかし、相対稽古の技の練磨でも、相手をあまり意識せず、相手に左右されないでできる時点が2回ある。相手に接するまでと、相手と離れた後である。相手に手を掴ませたり、打たせたりする時点と投げ終わったり、技をきめた後である。これは誰でもできるはずである。

まずは、相手に手を取らせたり、打たせる時の姿勢を正しくしていくことである。半身になっているか、手は体の中心線上あるか、ナンバになっているか、息遣いはどうか、気持は出ているか等などを見て、直していくのである。そして、それらを少しずつ改善していき、昨日の自分に今日の自分が勝つようにしていくのである。相手が強かろうが、下手であろうが、関係なくやるのである。

もう一つは、技をきめた後の姿勢である。半身になっているか、投げた相手と十字になっているか、手の平は上を向いているか(呼吸法などの場合)、腕は受身の形になっているか、残心はどうか、呼吸は乱れていないか等などができているかどうかを見て直していくのである。
簡単にいえば、美しい姿勢かどうかということである。無駄なものがなく、欠けたものがないのが美しいということである。

このはじめと終わりの収めは誰でも出来るので、これから自分の戦いに切り替える稽古ができると思う。はじめと最後が美しくできれば、途中の動きもだんだん美しくなってくるはずである。

自分の戦いが始まると、稽古前の準備運動も自分との戦いになる。自分の極限まで伸ばしたり縮めたりするようになるものだ。この自分との戦いの稽古を積み重ねることにより、自分が変わっていき、上達していくことになる。そして自分が変わらず、上達しないことに我慢できなくなってくるのである。

他人との戦いには限界があるが、自分との戦いに限界はない。体が続くかぎり、自分とは戦える。決して自分が自分に勝利して、非のうちどころがなく完全無欠な自分になることはできないことは分かっているが、自分への挑戦に意味があるはずである。

まずは、合気道の技の練磨において、他人ではなく自分と戦うことを身につけ、習慣化し、そして日常生活やビジネスでも常に自分と戦っていけば、技も自分も少しずつ出来あがっていくはずである。 まずは合気道の稽古で、技のはじめと最後の姿勢を見直し、正していくことからはじめたらよいだろう。