【第251回】 自分でみつけたものはかけがいのない財産

すべての習い事は、はじめは先生や先達について導いてもらい、学んでいかなければならない。天才や天才と思う人はその必要がないだろうから、独自でやればよいだろう。われわれ凡人とは違っていてもいい。確かに、歴史上、師や先達がいなくても大成した人たちもいる。

しかし、われわれ凡人はやはり師や先達に導いてもらい、基本的なことや方向性を学ぶに越したことはないだろう。その方が無駄が少なく、誤った方向に行かず、基本的なことを学ぶことができるはずだ。

合気道でも、まずは師から学ばなければならない。師から学ぶとは、師を信じ、師の教えることは言うにおよばず、一挙手一投足まで学ぶということである。従って、師は大事であるから、よい師にめぐり合えるように努力しなければならない。

その為には、運が必要になるだろう。限られた条件のもとで探すわけだから、よい師に巡り合えるかどうかは運としかいいようがない。能力の低い師についてしまったら不運である。

師から学ぶとは、一言で言えば、師の真似をするということだろう。技は勿論のこと、息遣いや身体遣い、それに癖も真似をするのである。

われわれが入門したころは、道主(開祖)をはじめ、若先生(吉祥丸二代目道主)籐平、斉藤、有川、多田、山口師範などそうそうたる師が教えておられた。その各師範の時間には、他の師範のやり方を忘れ、できるだけその師のやり方に変え、その師の真似をしたものだ。稽古が終わっての自主稽古のときも、帰られた師のやり方を真似をして、ふざけて楽しんでいたものだ。

時々、大先生(開祖)の真似をやっているのを大先生に見つかって、大目玉を食ったこともあった。大先生の流れるような技の真似ではなく、もっとがっちりした稽古をしなければ駄目だと叱られるのである。真似られれば師は喜ぶものであるが、大先生は違っていた。

確かに、初めは基本をしっかり身につけなければならない。基本が出来ていなければ先に進まないし、稽古の方向を間違ってしまうことになる。

学ぶことは、一生ものである。一生学び続けていかなければならない。しかし、いつまでも師から学んでいくことはできない。それにはいろいろ理由があるだろう。例えば、師の身体が動かなくなるとか、師が亡くなる、または師が教えるものがなくなる、師と考え方ややり方に違いが出てくる、何らかの理由で師と離れてしまう等々。

師から直接学ぶことができなくなってくると、今度は、学ぶということは自分でやることだということに気がついてくるものだ。師や他人から言われるのではなく、自分で見つけていかなければならなくなるのである。

教えてもらって身についたことは、半分しか自分のものではなく、半分は師、他人からのものなのである。物事を完全に自分のものにするためには、問題定義と問題解決の両方を自分で行わなければならない。問題がどこにあるのか、そして、その問題をどうすれば処理できるのかを研究しなければならないのである。

師に習っている時期は、問題は師が考え、師が提供してくれるし、答えまで用意してくれる。それを、自分でやらなければならなくなるのである。この切替はなかなか難しい。習っている時期と同じように他人に期待する稽古をしているのでは、先に進めないことになり、限界を感じ、稽古を中断するようになる。

自分が自分の師になったように、自分で問題を見つけ、自分に対し、この問題の解答を出すように指示する。その問題を、試行錯誤しながら稽古を重ねて、自分で解決したなら、すべてを自分自身でやったことになる。そうなれば、技が上達するだけでなく、問題を見つける目が養われ、その問題を解決する能力がついて、自分の財産が増えたことになる。

上級者になれば、師や他人からの問題定義や解決策を待つのではなく、自分で問題を見つけ、それを自身で解決法を見つけなければならない。自分で見つけたものは、かけがいのない財産になる。