【第250回】 出し惜しみしない

人は、不信、ケチ、勿体つけ、格好つけ等々により、往々にして出し惜しみするものだ。社会の中で生きる上では、それも必要なのであろう。

江戸、明治時代までの武道や武術は、自分や関係者の身を護るために修練することであったわけだから、技を他人に教えるようなことはしなかったはずである。もし、敵に技が分かってしまえば、その技は効かないことになり、返し技を掛けられてやられてしまったり、敗北してしまうことになるからである。相手に負けないためには、手の内を明かすことはせず、秘して置かなければならなかっただろう。

だが、合気道は試合もないし、稽古は勝負をするものではないので、稽古相手は敵ではなく、技を切磋琢磨するための仲間ということになる。仲間ということになれば、何も秘密にすることはないだろうし、隠すこともない。お互いに出来る限りの技を出し合って練磨し合えば、お互いの上達につながることになろう。

相対稽古で、どちらか一方でも出し惜しみをしたり、気を抜いた稽古をすると、お互いにその稽古から得るものは少なくなってしまうだろう。特に、相対稽古での上級者は、この出し惜しみに注意しなければならない。

相対稽古で上達するには、下の相手も大変だろううが、上級者はもっと厳しいはずである。上級者には、相手が上達の秘訣を教えてくれることがないのだから、自分でその秘訣を探さなければならないことになるからである。

上達の秘訣の稽古法のひとつは、自分の最高レベルで稽古することであろう。体も心も技も、最高レベルで使っていくのである。今まで修練して身に付けたものを総動員して、技に挑戦するのである。相手が弱いからとか、初心者だからとかいって、自分自身に「出し惜しみ」しないことである。

なぜならば、人は最高のものを出し切ることによって、次のレベルに進むことができるようであるからである。自分の最高レベル以下のところでいくらやっていても、レベルアップはできないはずである。

開祖は、われわれに稽古をつけて下さったときも、演武をされたときも、常にご自分の最高のものを出されて、レベルアップを心懸けておられたはずである。ある時開祖が、われわれが稽古中の道場に入って来られて、お話をちょっとされた後、神楽舞をされたが、間違えたと顔を赤らめて言われ、やり直しをされたのを覚えている。どうせわれわれには間違いなど分からないわけだから、黙って続けられてもよかったのにと、後で先輩とも話したものだが、今ではこのことによっても、開祖がいかに最高のものを常に目指しておられたのかがよく分かる。

合気道には試合も勝負もないので、あるレベルに来ると自分のレベルを過大評価したり、過少評価してしまう。だが、自分のレベルが分からなければ、レベルアップすることもできないことになる。自分のレベルを知るためにも「出し惜しみ」の稽古はしないことである。すべて出し切って稽古をしていけば、自分のよい所と欠陥、そしてレベルがわかる。言葉を変えて言えば、すべてを出し切っての稽古をしなければ、自分のレベルは分からない。

このために打ち負かさなければならない「敵」は、自分自身ということになる。この敵に対して、相対稽古の相手とは、共通の目標に対する味方であり、仲間ということになる。そして、こちらの身体遣いや技がどのような形になるのかを教えてくれたり、こうやるとぶつかったり弾いてしまうよと反応し注意してくれるありがたい同志なのである。敵として稽古をしたり、勝負の稽古をしては失礼であろう。

すべてを出し切るということは、無心になるということだろうから、相手とも一体化することが出来、こちらの分身として動いてくれるのだろう。

出し惜しみしない、無心になる稽古をして、最終的な目標に少しでも近づくべくレベルアップしていきたいものである。