【第234回】 君、焦りたもう事なかれ

合気道の基本中の基本技は、一教腕抑えである。開祖がおられた頃は一番よくやったが、最近は他の技の方が多く感じられるほど、一教の稽古が少なくなったようでちょっと寂しい。また、一教の稽古のやり方も、よく言えば紳士的になってきた。しかしながら、紳士的になるのもいいが、一教の稽古における大事なことを忘れているようにも思える。開祖がなぜ一教を重視されたのかを、一度考えてみなければならないだろう。

一教は、かつて一教腕抑えとも言われ、腕を抑えて相手を崩し、倒し、そして極める技である。二教のように手首、三教のように肘を極めるものではない。このため、しっかりした腕、締まりのある指、腰腹としっかり結んだ手先ができていなければならない。

だが、はじめからそのような腕や指や手ができているはずはないので、それをまずは一教の稽古を通してつくっていかなければならないことになる。それを相手を倒すこと、抑えることを目的にしてしまうと、肝心なことができなくなり、違った稽古になってしまう。

しっかりした腕、締まりのある指、腰腹としっかり結んだ手先をつくるためには、一教でできてもできなくとも、手と腰腹を結び、腰腹で手を遣うようにし、最後はその腰腹の力を指先に伝え、指先をしっかりと、相手が参ったという表示をするまで締めるのである。抑えている腕を相手に返されてしまうとか、思うようにできなくとも、数年も締める鍛錬をしていけば、指は締まるようになるし、腕もしっかりしてくるし、また手先と腰腹がしっかり結ぶようになるはずである。

まだできないうちは、できるようになるのかどうか不安であるだろうが、自分を信じて地道にやれば、必ずできるようになるはずだ。「君、焦りたもう事なかれ」とエールを送る。

それができてくると、一教はうまくかかるようになるだろう。また、一教ができるようになると、二教も小手返しも以前より格段とうまくできるようになるはずである。

合気道は、技の練磨を通して進む道である。宇宙法則に則った技を身につけることによって、宇宙を感じ、宇宙と一体化しようという、壮大な習い事ということができる。5年や10年でできるようなものではない。開祖には容易だったかもしれないが、われわれ稽古人は50年、60年はかかるだろうし、もしかするとできないで終わってしまうかもしれない。望みをもってやってみるしかない。

習い事はみなそうだろうが、地道に粛々と着実にやっていかなければならない。地道に粛々と着実にということは、やるべきことを焦らずに一つ一つやっていくことである。すぐにできることなどない。すぐにできることなど、わざわざやる必要はない。

開祖も道歌に詠われている。「日々のわざの稽古にこころせよ一を以って万に当たるぞ武夫(ますらを)の道」「常々の技の稽古に心せよ一を以って万に当たるぞ修行者の道」(道歌)この「一」を一教と考えてもよいだろう。