【第216回】 一所懸命にやるだけ

人が一所懸命やっている姿は美しく、感動する。働いている姿。レストランや喫茶店で誠意を込めてサービスをする人、ビルの清掃を丁寧にやっている管理人、真面目に働いている工場の作業員、学校で真剣に勉強している生徒たち、子供を育てている親や一所懸命生きようとしている幼子たちなどなど見ていると感動するものだ。

人は誰でも、一所懸命に生きようとしていると思う。ただ、運が悪いとか、能力が他の人より一寸劣ったりして、思うように行かず、周りから一所懸命でないと見られることがあるかも知れない。人が一所懸命に生きたり、何かをやるということは容易ではないかもしれない。

一所懸命ということは、他のことを忘れて、自分をそれに没入させ、自分がどこまでできるかの戦いであると言えよう。時間や場所を忘れて、今、ここでの挑戦であろう。
一所懸命やった時、見る人は感動する。人の素晴らしい側面に感動するのだろう。ここには上手いとか、下手とか、出来たとか出来ないとかなどは関係ない。結果ではなく、いい結果を求めての挑戦する姿に感動するのである。 また、一所懸命には他人の入り込む余地はない。自分との戦いだからである。もし、ここに他人が入り込めば、一所懸命は違ったものになってしまう。

合気道の演武会や他の武道・武術の演武をよく見に行くが、みんなそれなりに一所懸命やっているが、感銘するものとしないものがある。
感銘するものは上手だからではない。上手下手は関係ないようである。
感銘して拍手を多くするのは、自分との挑戦をした演武者である。今まで修行してきたことを出し切ったり、新しく身につけた技を失敗しないように慎重に演じる姿である。大人とか子供とか、初心者とか上級者とかは、全然関係ないことである。
どんなに古くて高段者であっても、名が知れている人であっても、観客を意識し、観客に見せようとしてやったものは、感銘を受けないどころか、後味が悪い。自分との真の戦いや挑戦でないものは、一所懸命やっているとは思えないし、拍手も出来ない。

かつて本部で教えておられた有川定輝師範には、よくいろいろな演武を見に連れて行って頂いた。師範は演武が終ると拍手を数回するのだが、ある時、演武者によって拍手の回数が違うことに気がついた。演武と拍手の回数の相関関係をよく観察していると、自分のために一所懸命に演武した人には多く、そうでない人には少なく、あまり観客に媚びた演武には拍手もしないし、そっぽを向いておられるという結論を得た。

一所懸命には、初心者も高段者もない。誰でも、何時からでもできるものだ。他人の目など意識しないで、一所懸命に稽古をしていかないと、上達は難しいのではないだろうか。なぜなら、一所懸命やるということは自分に打ち勝つことであるのだから、続ければ上達することになるからである。他人に感心してもらっても、自分は変わらないだろう。それよりも自分に感心してもらうよう、一所懸命に稽古をしていきたいものである。