【第215回】 始めが肝心

世の中が忙しくなっているせいか、人は何事も結果しか見ないし、プロセスに興味を持たないようである。途中のプロセスがどうであったかなどは、無視してしまうようだ。しかし、他人のプロセスに興味がないのは仕方がないとしても、それが自分に及ぶと問題である。

技を練磨する合気道の稽古でも、技を掛けて相手が倒れればよしと思い、倒すことを目的としてしまって、倒すまでのプロセスを無視してしまうからである。そうなると、腕力でやったり、足を遣ったりする、奇技の外道に陥ってくることになる。

プロセスがよければ、その結果として相手は倒れるわけだから、倒すことに一生懸命になるより、プロセスを大事にする稽古をしなければならない。

プロセスを大事にしなければならないが、プロセスが始まる最初が特に大事であると考える。それは、相手と触れた瞬間である。相手が打ってきたり、掴んできて、こちらの体に触れた瞬間である。

相手はこちらをやっつけようとして攻撃してくるというシナリオで稽古をしているはずなので、相手の攻撃にやられないことは大事だが、武道の技の稽古であるから、理想としては長々と争うより、その触れた瞬間に、相手を参ったと思わせた方がいいはずである。従って、相手の攻撃してくる手で抑えられたり、手を弾いてしまったり、逃がしてしまっては、相手を参ったといわせることができないのでまずいことになる。

触れた瞬間に相手に参ったと満足してもらうためには、接した瞬間、その接点で相手の手と結んでしまわなければならないだろう。つまり、くっつけてしまうのである。くっついてしまえば、相手はこちらの体の一部になり、二人は一体化してしまうので、相手はこちらの思い通り動いてくれることになる。逆に、くっつかなければ相手は自由に動けるので、悪さをしてくるだろう。例えば、後両手取では、手がくっつかないで離れれば、すぐに首を絞められたり、後に引き倒されてしまうことになる。

後両手取だけでなく、手を取らせたり、正面や横面で打たせた手と触れた瞬間にくっつかなければ、相手はまだ自由に生きているので、技は掛からない。相手が自由に動けるのに倒そうとすれば、技は遣えないので腕力を遣うしかない。これで喩え相手が倒れても、合気道の技とは言えない。なぜならば、合気道の技は相手を倒すものではなく、相手が自ら倒れるようにできているはずだからである。

ドイツ語には「終わりよければ、すべてよし(Ende Gute, Alles Gute)」という諺がある。西洋文明、物質文明を象徴していると思えるが、今は日本を含め、世界中がこの傾向にあるといえるだろう。合気道はこれと正反対で、「始め駄目なら、すべて駄目」である。始めを大事にする稽古をしなければならない。