【第214回】 限界への挑戦

合気道には、試合がない。相手と戦って勝つ必要もない。それに比べて、スポーツは勝負があり、それに勝たなければならない。勝負に勝ってトップになるのが最終目標であるから、その意味では大変である。相手も勝とうとするわけだから、激しい戦いになる。負ければ、それで終わりである。気を入れて練習しなければ勝つことはできないが、どちらかは負けなければならない。

合気道には試合がない。稽古も相手と争うわけではないので、緊張も少なく、気楽にできるだろう。また、受けを取る方は必ず受けを取ることになっているので、技が効いていなくとも倒れてくれるものだ。

しかし、合気道は武道である。武道は本来、命のやり取りをするためのものであったわけだから、ルールに則った平和的スポーツよりも厳しいものであるはずである。

合気道は、今や世界130カ国に150万人に普及しているといわれる。これは老若男女、大人も子供も気軽に、安全にできるからといえよう。しかしながら、合気道は、その陰陽の教えにあるように、やさしいし、楽だが、やさしさの中に厳しさ、楽な中に苦があるのである。

合気道には、やさしさがあるが、その裏に武術的な厳しい面があるのである。やさしい稽古を続けることもできるが、上達したいなら、厳しく技を鍛錬しなければならないし、そのために体を鍛えなければならない。

まず、合気道の体が出来ていなければ、合気道の技は遣えないし、本格的な技の鍛錬も出来ない。開祖は、まず体のカスを取れといわれていた。カスが溜まっていたのでは、関節は錆ついていて上手く動かないし、筋肉や骨も柔軟や剛さに欠けるので危険なのである。

カスを取るのは、よほど気を入れてやらなければ取れるものではない。ただ技の形だけをお座なりでやっていても駄目である。伸ばすためには自分の限界以上に伸ばさなければならない。限界内でいくらやっても、筋肉や関節のカスは残ったままのはずである。

受けを取る時は、相手に自分の限界より紙一重上まで伸ばしてもらうのがいい。自分が相手を伸ばしてあげるときも、相手の限界より紙一重上までやってあげることである。これは相手のカスを取ってあげるお手伝いをするわけであるから、愛ということになる。この愛がなければ、いじめになってしまう。はじめは痛くて、限界内で手をたたいてしまうだろうが、お互いに歯を食いしばってでも、限界に挑戦し合わなければならない。

カスが取れて、筋骨がしっかりし、体ができてくれば、本格的な技の練磨に入ることができるだろう。しかし、技も初めから上手く遣えるわけではないから、順序良く、道に沿ってレベルアップをしていくほかない。

レベルアップするためにも、常に限界を越える稽古をしなければならない。自分の体力、気力、そして持てる技を駆使して、自分に挑戦していくことである。つまり、自分自身への挑戦である。自分の限界に対する挑戦である。スポーツのように、負かす敵は他人ではない。敵とは、自分自身である。

敵であり、師でもあるもう一人の自分に、教えてもらったり、そんなこともまだ出来ないのかと罵倒されたりしながら、共に稽古をしていくのである。

自分に勝つのは難しい。ごまかしがきかないし、目標の自分は常にこちらの先をいっているからである。スポーツはどちらかが勝つようにできているが、合気道では、自分は自分に負けるようにできているようである。自分の限界を押し上げて、完成を目指してレベルアップしていくしかないだろう。

稽古とは、一言でいうならば、自分の限界への挑戦ということができよう。